走狗

新選組副長助勤・斎藤一

伊東との会合を終え、帰路の最中、何者かにつけられていることに気がつく川路。その正体は、新選組隊士・斎藤一であった。



 ───『孫子』か。

『論語』などの四書五経は、かつて村の寺子屋で習ったが、『孫子』などのけい七書までは手が回らなかったことを、利良は思い出した。

 鶴屋の前で伊東のを見送った利良は、藩邸まで歩こうと思った。駕篭を雇う金くらいはあるが、足腰の鍛錬のために、利良は半刻くらいの距離なら歩くのを常としている。しかも京都の地理に精通するには、歩くのが一番だ。

 烏丸五条まで歩き、そこを一直線に北進すれば、半刻くらいで藩邸に帰り着く。さすがに道のよく分かっていない利良でも、それくらいなら、一人でも迷わないはずだ。

 方向感覚には自信があるので、利良は子供の頃から山中でも迷ったことはない。それゆえ、とにかく東に歩けば烏丸通に出られると思った。

 ところが島原を出てすぐ、誰かにつけられていると感じた。人通りの多い堀川通はまだ先で、ちょうどほんこく寺の手前の小さなたっちゅうが密集している辺りである。人通りは絶え、灯りの一つさえない。

 ───まずいな。

 相手をまくか斃さない限り、藩邸に戻ることはできない。伊東と会っていたのが、薩摩藩士だと分かってしまうからだ。走って逃げようかとも思ったが、武士としてそれはできない。

 ───お前は武士ではない。

 心のどこかから、そんな声が聞こえてきた。

 ───いや、わしは武士だ。

 利良は戦う肚を決めた。

「なにゆえ、後をつけておる」

 突然、立ち止まった利良が、五間(約九メートル)ほど後ろにいる影に声を掛けると、影が動きを止めた。

「武士の後を黙ってつけるなど、下郎に違いない。命は取らずに勘弁してやるので、さっさと立ち去れ」

 足下の砂利のわずかな音から、影が身構えたのが分かる。

「貴殿の名をお聞きしたい」

 影の声が聞こえた。極めて冷静で、どうの一つもしていない。

 ───こいつは相当の使い手だ。

 利良も腕には自信がある。だが、こうした斬り合いの常で、最初の斬撃で敵に致命傷を与えない限り、互いに手傷を負う。結局、共倒れということにもなりかねない。

「名を聞きたいなら、先に名乗るのが道理だろう」

 利良は江戸詰が長いので、りゅうちょうな江戸弁を使える。

「われらは京都守護職御預の新選組ゆえ、職務上、名乗る必要はない」

 ───伊東は新選組につけられていたのか。

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中央公論新社
2016-12-19

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伊東潤デビュー10周年の集大成 警察の父・川路利良大警視(現:警視総監)の生涯を描いた長編時代小説 明治維新――。それは、謀略渦巻く、弱肉強食の時代。 純粋な志を持つ男たちが、権力を握るや、醜い修羅へと変わってしまう。 薩摩藩の下...もっと読む

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