八
───『孫子』か。
『論語』などの四書五経は、かつて村の寺子屋で習ったが、『孫子』などの武経七書までは手が回らなかったことを、利良は思い出した。
鶴屋の前で伊東の駕篭を見送った利良は、藩邸まで歩こうと思った。駕篭を雇う金くらいはあるが、足腰の鍛錬のために、利良は半刻くらいの距離なら歩くのを常としている。しかも京都の地理に精通するには、歩くのが一番だ。
烏丸五条まで歩き、そこを一直線に北進すれば、半刻くらいで藩邸に帰り着く。さすがに道のよく分かっていない利良でも、それくらいなら、一人でも迷わないはずだ。
方向感覚には自信があるので、利良は子供の頃から山中でも迷ったことはない。それゆえ、とにかく東に歩けば烏丸通に出られると思った。
ところが島原を出てすぐ、誰かにつけられていると感じた。人通りの多い堀川通はまだ先で、ちょうど本圀寺の手前の小さな塔頭が密集している辺りである。人通りは絶え、灯りの一つさえない。
───まずいな。
相手をまくか斃さない限り、藩邸に戻ることはできない。伊東と会っていたのが、薩摩藩士だと分かってしまうからだ。走って逃げようかとも思ったが、武士としてそれはできない。
───お前は武士ではない。
心のどこかから、そんな声が聞こえてきた。
───いや、わしは武士だ。
利良は戦う肚を決めた。
「なにゆえ、後をつけておる」
突然、立ち止まった利良が、五間(約九メートル)ほど後ろにいる影に声を掛けると、影が動きを止めた。
「武士の後を黙ってつけるなど、下郎に違いない。命は取らずに勘弁してやるので、さっさと立ち去れ」
足下の砂利のわずかな音から、影が身構えたのが分かる。
「貴殿の名をお聞きしたい」
影の声が聞こえた。極めて冷静で、動悸の一つもしていない。
───こいつは相当の使い手だ。
利良も腕には自信がある。だが、こうした斬り合いの常で、最初の斬撃で敵に致命傷を与えない限り、互いに手傷を負う。結局、共倒れということにもなりかねない。
「名を聞きたいなら、先に名乗るのが道理だろう」
利良は江戸詰が長いので、流暢な江戸弁を使える。
「われらは京都守護職御預の新選組ゆえ、職務上、名乗る必要はない」
───伊東は新選組につけられていたのか。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。