六
元治二年は四月に慶応と改元され、慶応元年(一八六五)となった。
安政七年(一八六〇)三月の桜田門外の変に始まり、文久二年(一八六二)六月の島津久光の江戸上府と生麦事件、文久三年七月の薩英戦争、八月十八日の政変、元治元年(一八六四)の禁門の変、そして第一次長州征討と、薩摩藩が関係した大きな事件だけでも、これだけのことが次々と起こっている。
こうした政局とは、ほど遠い立場にいた利良でさえ、いつの間にかその渦中に放り込まれ、薩摩藩の政治活動の末端を担うようになっていた。
慶応元年の懸案は、条約勅許問題と第二次長州征討の是非である。
一橋慶喜は京都における政治的主導権を堅固なものとすべく、第二次長州征討を実現させたかった。
一方の薩摩藩は、京都政界の主導権を握った禁門の変以降、朝廷と幕府の双方を操り、新たな政体を築こうとしていた。
そんな折、利良は勝海舟から与えられた新たな情報を持って、京都二本松にある薩摩藩邸を訪れた。この藩邸は東洞院の藩邸が手狭になったため、文久二年に建てられたばかりで、薩摩藩の勢威を象徴するものとなっていた。
藩邸の会所で西郷を待っていると、西郷は、いま一人の武士を伴って入ってきた。
「正どん、久しかぶいな」
西郷の後ろから現れた人物を見て、利良は広縁に頭をすり付けた。
「正どん、お待たせしもした。じゃっどん、そこでないをしちょっとな」
「苦しゅうない、こちらに来い」
西郷と一緒に現れた武士が、優しげな声音で言う。
「はっ、ははあ」
与力や足軽が士分に対する場合、正式の座では、許しがあるまで縁に控えていなければならなかった。だが、次第に簡略化され、この頃には、座敷に控えていても非礼ではなくなっていた。とはいっても相手が家老となると、話は別である。
「正どん、小松様は初めてでごわすか」
「は、はい」
「小松帯刀だ」
「はっ、ははあ。川路正之進です」
小松帯刀清廉はこの時、三十一歳。この若さで、藩政を主導する立場にある。
「構わぬから、面を上げろ」
「正どん。もう堅苦しかこっは要らん時代になったっど」
「はい」と答え、利良は思い切って顔を上げた。
正面上座に座る小松は、にこやかな顔の西郷とは対照的に、真剣な眼差しを利良に向けていた。
根が真面目で、酒席でも戯れ言一つ言わないと噂されている小松である。この時も無愛想なほど無表情だった。
「早飛脚で江戸の情勢は、おおまかに分かいもした。そいでは、詳しく話しっくいやい」
西郷が先を促す。
二人が多忙なことを思い出した利良は、「はっ」と言って威儀を正すと、勝から聞いた話を正確に繰り返した。
「先頃、再び勝様から呼び出しがあり、五月に将軍家が上洛の途に就くと伝えられました」
そこまでは書状で、すでに知らせてある。
「その裏で画策しているのは、一橋公とのこと」
「やはりな」
小松がため息交じりに言う。
水戸斉昭の七男で一橋家十万石に養子入りした慶喜は、幕閣の次代を担う人材として大いに期待されていた。
薩摩藩も慶喜に大きな期待を寄せ、島津久光の上府時に幕閣に圧力を掛けて将軍後見職に就任させた。ところが慶喜は、八月十八日の政変で長州藩を追い落とした後、新たに編成された参預会議後の酒席で泥酔した挙句、久光を「表裏ある侫人」と罵倒し、薩摩藩から愛想を尽かされた。
慶喜は幕閣とも距離を置き、朝廷工作によって禁裏御守衛総督に就任すると、会津・桑名両藩の軍事力を背景にして独自の勢力を築き、政界の主導権を握ろうと画策していた。これが、いわゆる一会桑勢力である。