五
禁門の変が終わり、論功行賞が行われることになった。
この時、事前に西郷を訪ねた利良は褒美を辞退し、その代わりに江戸留学を願い出た。
与力や足軽が功を挙げれば、ほしがる褒美は金銭と決まっており、西郷をはじめとした幹部たちは、一様に驚いた。
利良の家も貧しいのは、ほかの与力と変わらない。それでも、褒美を生活費に充てるほど困窮してはいない。妻はいるが、食べさせていかねばならない子はいないので、さらなる出頭を目指して、江戸で学んだ方がよいと思ったのだ。
これを認めた西郷は、洋式兵学の太鼓術を学ばせるため、利良を幕臣の関口鉄之助の私塾に派遣する。
関口はフランス人から洋式歩兵調練の進退を司る太鼓術を学んだ先駆者で、これが後の軍楽隊に発展する。
利良の江戸滞在は弘化四年(一八四七)の十四歳の時に始まり、三度にも及んでいた。そのため利良にとって江戸は身近で、さらなる出頭のための留学に抵抗はなかった。
一方、この頃、京都の西郷と本国にいる大久保は、難しい舵取りを託されていた。
禁門の変があった四日後の七月二十三日、朝廷は幕府や諸藩に長州征討の勅命を下したが、薩摩藩は様子を見ることにする。
というのも幕威が回復しすぎては、薩摩藩の目指す公武合体策による雄藩連合政権の樹立という政治目標が、水泡に帰してしまうからだ。
八月五日、四カ国艦隊は下関を砲撃し、長州藩を完膚なきまでに叩きのめした。この影響は大きく、長州藩内の尊攘派は勢いを失い、藩論は恭順に傾いていく。
それでも幕府は武力討伐を進めようとしたが、その機先を制するかのように、征長軍の参謀となった西郷は、毛利慶親・定広父子の謹慎と偏諱剥奪、三家老の切腹、四参謀の斬首、攘夷派五卿の領外への追放といった条件で話をまとめてしまう。
結局、第一次長州征伐は不発に終わり、長州藩は軍事力を温存した形で生き残った。
そんな折の元治二年(一八六五)正月、江戸にいる利良に、幕臣の勝麟太郎(海舟)という旗本から連絡が入ったら、指示通りに動けという西郷の命令が届いた。
何のことやら分からずにいると、高輪の薩摩藩邸に勝の使いと称する者がやってきて、品川の土蔵相模に来てほしいという。
その者に従って品川まで行くと、土蔵造りの遊郭に案内された。こんなところに来たことのない利良は戸惑ったが、奥の小部屋で、男が一人なのを見て安堵した。
男は、おぼろに室内を照らす有明行灯と向かい合い、煙管を吸っていた。
「薩摩藩の川路様をお連れしました」
「茂助、ありがとよ。話は小半刻で終わる。その辺を歩いていてくんな」
「はい」と言うや、茂助と呼ばれた従僕らしき男は、障子を閉めて立ち去った。むろん「歩いていてくれ」というのは、周囲を警戒していろという意である。
男はしばしの間、無言で煙草を吸っていた。周囲からは、女の嬌声や板敷を踏み鳴らす音が間断なく聞こえてくる。
「わざわざご足労いただきすまなかったな」
男は威儀を正すと名乗った。
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