走狗

このお方の近くにいたい

薩摩藩には独特の身分制度があり、川路は「与力」という最下層の武士身分であった。
立身出世のために、剣術・鉄砲・勉学に励み、腕を磨いた。
しかし、それ以上に川路を突き動かしていたのは、西郷の恩に報いるためだという。
西郷の恩とは?
禁門の変から20年前、川路が10歳の頃まで遡る・・・


 その日、いつものように大根を積んだ荷車を引いて畔を進んでいると、向こうから城下士らしき少年たちがやってきた。

 ───なんで、こんなところを通るんだ。

 おそらく誰かの発案で、近道をしているに違いない。だが畔は人一人がやっと通れる幅しかなく、相手をやり過ごすには、半町ほど後方の十字路まで戻らねばならない。しかし荷車を反転させることはできず、利良は車を逆に押す羽目に陥った。

 荷車は前に進んでいる時は安定するが、後ろに戻ろうとすると、とたんに蛇行を始める。

 利良は懸命に押したが、すぐに車輪が田に落ちそうになる。振り向けば、少年たちは歩度を緩めず、こちらに向かってくる。

 利良は懸命に車を押すが、車は言うことを聞いてくれない。

 その時、百姓が休憩するためか、畔が少しだけ広くなり、切株が置いてある場所があった。

 ───何とか、あそこまで戻らないと。

 利良は懸命に車を押し、少年たちが来る前に、その場所に着くことができた。これなら縦列になれば、車の横をすり抜けられる。

 ほっとしたのも束の間、少年たちがやってきた。皆、上質の薩摩がすりを着ており、一見して裕福な城下士の子弟だと分かる。

 正座した利良が頭を下げていると、くすくす笑いながら、少年たちが近づいてきた。

「ああ、ここにあっとはなんよ」

「荷車んごった」

「そいどん、こいがあったら通れんな」

「いけんすっか」

 少年たちは空々しく会話を交わしている。彼らが、何か企んでいるのは明らかである。

「しょうがんな。通れるごっしもんそ」

「しもんそ。しもんそ」

 少年たちは、荷車に載っている大根を田んぼに投げ捨て始めた。

 それを見た利良が、たまらず怒鳴る。

かんにんしやったもんせ!」

 利良が少年たちの前に土下座すると、一人が言った。

「うんにゃ、しまこんじゃっち思たが、こいは人か」

「どうか堪えてやってくいやい」

 利良が懇願する。

なんを堪ゆっとか」

 利良の眼前に大根が落とされると、少年の一人が踏み付けた。

 大根は無残につぶされ、白い実が泥と混じり合う。

 ───人様の腹に収まるはずだったのに。

 涙が込み上げてきた。

 ちょうど今朝、父の正蔵が笑みを浮かべて、「こいは、よう実っちょ」と言い、引き抜いた一つである。

「なんよ、泣いちょっとか」

 別の一人が利良をのぞき込む。

「泣いちょらん!」

 開き直った利良が顔を上げると、少年たちは驚いたようだ。

ないか文句あっとか」

 一人が虚勢を張るようにいきまくと、別の一人が笑いながら言う。

こんんくせに、こさっな野わろじゃ」

「大根葉」とは薩摩弁で「役に立たない」、「こさっな」とは「生意気な」という意味である。

「いっちょ、やきを入るっか」

「おう、すっが」

 一人が蹴りを入れてきた。

「うわっ」

 その一撃をまともに顔に受けた利良は、背後にのけぞるように倒れた。

 すかさず腹を隠すようにうつぶせになると、蹴りの嵐が背や尻を襲う。

 その時である。

「ちっと、待っくいやい」

 少年たちの背後から野太い声が聞こえた。

「いったい、いけんしたとですか」

 声の主は、少年たちをかき分けるようにして近づいてくると、利良の肩を抱いた。そのてのひらは分厚くて温かい。

「泣かんとよ」

 はっとして顔を上げると、黒く大きな瞳が、じっと利良を見つめている。

 ───この人は、誰だ。

 その瞳は赤子のように澄んでいる。

ないな、おはんは」

「ちょうど通いかかったもんです」

「嘘をな。おいたっとおんなじで、外城士の腹切りを見に行くんろ」

 そのうわさは利良の耳にも入っていたが、生活に追われる身には、それを見に行く余裕などない。

「おい、名をば名乗らんか」

 少年たちの一人が問う。

「おいですか」

「おう。そうじゃ。そん太か顔は知っちょっどん、おはんの名は知らん」

「太い」とは「でかい」のいである。

「おいは、しも町の西郷きちすけちゅうもんごわんど」

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伊東潤
コルク
2016-12-19

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伊東潤デビュー10周年の集大成 警察の父・川路利良大警視(現:警視総監)の生涯を描いた長編時代小説 明治維新――。それは、謀略渦巻く、弱肉強食の時代。 純粋な志を持つ男たちが、権力を握るや、醜い修羅へと変わってしまう。 薩摩藩の下...もっと読む

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jun_ito_info 【期間限定公開】 新刊『走狗』の第4話が本日公開! 第4話では、表紙の3人 川路・西郷・大久保の出会いが描かれます! https://t.co/Y4PLBTEjI5 #走狗 #川路利良 #西郷隆盛 #大久保利通 スタッフ 25日前 replyretweetfavorite