三
「おやっとさあ」
勝利に沸き立つ薩軍本営に戻ってくると、巨漢が表口に立ち、帰陣する兵一人ひとりに声を掛けていた。その柔和な瞳と温かみのある声を聞けば、薩摩隼人なら誰でも、この人のために死ぬ気になれる。
「正どんではなかか」
「ああ、西郷先生、いけんしたとですか───」
西郷は左足を白布でぐるぐる巻きにし、足を引きずっていた。
「大したことはあいもはん」
よく見ると、白布から血がにじんでいる。
「先生───」
思わず膝をついた利良は、西郷の足の傷を確かめようとした。
「流れ弾がかすっただけじゃっで。気にせんでくいやい」
それでも利良は、西郷の傷が気になって仕方がない。
「もう正どんは天下の英傑じゃ。おいの足なんど気遣ってはいかんど」
「天下の英傑───。そいは何のこっですか」
「おはんは、すごか功を挙げもした」
西郷が笑みを浮かべる。
「すごか功───。おいは、いったい誰を撃ったとですか」
「そいを知らんとですか」
「知りもはん」
「こいは驚きもした」
西郷がおどけた声を上げたので、周囲が沸いた。
「ゆっかせよう」
西郷の背後にいた男が「教えてやる」と口を挟んできた。
中村半次郎である。
「おはんが撃ったとは、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛じゃ」
「えっ───」
来島又兵衛といえば、この乱の実質的指導者かつ実戦部隊の指揮官である。
利良が二の句を継げないでいると、西郷がうれしそうに言った。
「そいだけじゃなか。長州藩随一と謳われた剣客も斃したと聞きもした」
───篠原秀太郎と名乗った男のことか。
利良は言葉もない。
「正どんの活躍で、おいたちは勝ちもした」
「ああ───」
あまりのうれしさで、その場にくずおれそうになる利良に、中村が冷めた口調で告げる。
「褒美は後でやっで、あっちへ行っちょれ」
───何だと。
利良の負けん気が頭をもたげる。
「おいは、褒美をもらうために戦ったとではあいもはん」
中村の顔が怒りで引きつる。
「そいでは、何のために戦った」
「おいは───」
そう問われてみれば、何と答えていいか分からない。「この国のため」とか「薩摩藩のため」と言っても、何か空々しい気がする。
───西郷先生の喜ぶ顔が見たいから戦ったんだ。
突き詰めて考えれば、そういうことになる。
「そんくらいも分からん奴に殺された来島どんや剣客も、まこてぐらしか(可哀相)じゃの」
中村の言葉に、周囲にいた者たちがどっと沸き立つ。
「半次郎、もうよか。正どん、後で飲もな。そん時は、得意の太鼓おどいを見せっくいやい」
西郷は下戸に近いが、薩摩人の基準で言えば、利良もあまり酒をたしなまない。しかし西郷が喜ぶので、利良は酒席となると郷里の太鼓踊りを披露する。
早くも西郷は、次の者をねぎらっている。まだ礼が言い足りないと思っていた利良が、その場でぐずぐずしていると、中村が手を振り、「あっちへ行け」と指図してきた。
その場から去り難く、何度も振り返りながら歩いていると、誰かの肩に当たった。
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