第一章 徒手空拳
一
鼓膜が破れるかと思われるほどの砲音と銃声が轟く中、川路正之進利良は、禁裏の西に面した通りを南に向かって走っていた。
どこかの屋敷が燃えているのか、街路に黒煙が立ち込め、十間(約十八メートル)先も見通せない。
「外城士隊は蛤御門へ向かえ!」
物頭らしき声が後方から聞こえる。
薩摩藩が守備に就いていた乾御門から、会津藩などが守る蛤御門までは、わずか二百八十間(約五百メートル)の距離だが、こういう時に限って、随分と離れているような気がする。
長身の利良は、駆けるのが苦手ではない。しかし前後左右にも男たちが走っているので、本来の速さで走れない。
前を走る者たちの肩の間をすり抜けようとすると、罵声を浴びせられた。
「あっ、こん〝畔もぐい〟が!」
利良のことを「もぐら」と罵りつつ、その太った男が肩に手を掛けてきた。
「うわっ、何すっか!」
利良が、もんどり打って倒れる。
砂埃の中を、黒の半マンテルに洋式ズボンをはいた男たちが走り抜けていく。
慌てて立ち上がった利良は、支給されたばかりの先込め式エンフィールド銃を拾うと、再び駆け出した。
乾御門と蛤御門のちょうど中間に、福岡藩の守る中立売御門がある。そこでは、すでに戦闘が始まっていた。
敵である長州藩の放った砲弾が、近くの公家屋敷の屋根を直撃し、瓦の雨を降らせる。それにたじろぎ、外城士隊の行き足が鈍る。
双方共に大砲は当てずっぽうで撃っているので、相当に運が悪くない限り、砲弾で死ぬことはない。それでもその轟音を聞けば、足がすくんで動けなくなる。
たまらず片膝をついた利良は、半首笠で頭を守りつつ首をすくめた。
「なんしちょっと、こんおどもんが! ここは城下士隊が助太刀に入る門じゃ。おはんら外城士隊は蛤御門へ向かえ!」
利良のことを「横着者」と罵りつつ、物頭が利良の肩を掴んで立たせようとした。
その時、近くで砲弾が炸裂した。
「うわっ!」
体が浮いたかと思うと地面に叩き付けられ、次の瞬間、何も聞こえなくなった。
慌てて頭を叩くと、耳の中がぐわんぐわんと鳴っている。
───鼓膜が破れたか。
一瞬、不安になったが、すぐに凄まじい音響がよみがえった。
───よし、大丈夫だ。
土埃の中で起き上がると、すぐ横で物頭が頭から血を流して倒れていた。介抱しようかと思ったが、そんなことをしている暇はない。
心中で詫びた利良は、再び駆け出した。
やがて蛤御門が見えてきた。
門の付近には「會」と大書された旗が林立し、四斤山砲から砲弾が次々と放たれている。
───これが戦場か。
初めて立つ戦場に、利良の肝が縮む。
その時、築地塀の上から身を乗り出すようにして鉄砲を放っていた会津藩兵が、絶叫を上げて転がり落ちた。そのまま兵は動かない。背後にいた小者が、その兵の腋の下に手を入れて後方に下げていく。その時、頭蓋が割れて脳が飛び出し、顔は真っ赤に染まっているのが、ちらりと見えた。
───弾が当たれば、ああなるのか。
じんわりと死の恐怖が込み上げてくる。
「どかんか!」
立ちすくむ利良の左右を、外城士隊の同僚が駆け抜けていく。皆、射撃するのにいい場所を占めようと、われ先に築地塀に取り付いていく。築地塀には、そこかしこに足掛かりが付けられているが、どれも誰かが使っている。
───後れを取るわけにはいかない。
懸命に足掛かりを探すが、空いているものはない。
気づくと禁裏の西南隅まで来ていた。
その時、蛤御門の南側にある庭田邸から、椋の木の枝が伸びているのを見つけた。
───木登りなら得意だ。
利良は、鉄砲を負革(ストラップ)で背に縛り付けると枝に飛び付いた。それを伝っていくと、蛤御門の外が見えてきた。
───敵だ。
黒煙の中に「一文字三ツ星」の大四半旗が見える。土俵を遮蔽物とした敵の銃兵が、こちらに向かって間断なく鉄砲を撃ち掛けていた。
鉄砲隊の背後では、これから突撃するつもりなのか、古甲冑を着た多くの者たちが膝立ちで控えている。その中央には、門を破る時に使うつもりか、差し渡し三尺(約九十センチ)はある材木が見える。
耳を澄ますと、「これで勝てるぞ」「あと一押しだ」という声が聞こえてきた。
その時、敵陣の後方から肩高五尺はある馬が引かれてきた。風折烏帽子をかぶり、古色蒼然とした甲冑をまとった大男が、それにまたがっている。
───あれが大将か。
その男が左右に何事か下知すると、すぐに命令が伝達され、長州藩兵は突撃態勢を整えた。
どの顔にも緊張が漲っている。
───突撃させてはならない。
薩摩藩兵が援軍に駆け付けたとはいえ、会津藩兵は限界に達しており、ここで敵に突入を許せば、蛤御門は破られる。
この時になって利良は、狙撃するには絶好の位置を占めていることに気づいた。
枝にまたがって下半身を固定すると、左手で銃を持ち、右手で胴乱から紙早合を取り出し、口で端を引きちぎった。
その時、敵将らしき大男が軍配を前に振った。最前線の鉄砲隊に前進を命じたらしい。木盾を押し立て、銃兵たちが前に進む。味方の銃撃も激しさを増し、絶叫を上げながら倒れる長州藩兵も多くなってきた。それでも敵は前進をやめない。
門との距離が三十間ほどになった。これでは互いに狙い撃ちである。
───おぬしは薩摩一の名人だ。必ず当たる。
己にそう言い聞かせた利良は、早合の火薬を銃口へ注ぐと、弾を押し込んだ。
敵将が軍配を高く差し上げる。いよいよ突撃の時が迫ったのだ。
利良は槊杖を抜こうとしたが、初弾なので、その必要がないことに気づいた。
───落ち着け。
撃鉄を起こし、胴乱から取り出した雷管を火門突にかぶせると、撃鉄を少し上げて、引金を引きながら撃鉄を雷管の上に下ろした。
───これで、いつでも撃てる。
汗が目に入る。それをぬぐった利良は、銃を目の高さに構えた。
敵将は、戦況を見ながら軍配を振り下ろす時機を見計らっている。その背後に控える刀槍を手にした者たちの顔にも緊張が漲っている。
双方の銃撃音がいっそう高まってきた。
「先生、見ちょって下さい。おいはやいもす」
そう呟くと、利良は銃床を頬に当てて狙いを定めた。
敵将が軍配を振り下ろそうとしている。
右手の人差し指が震える。極度の緊張に耐えられず、引金を引きたくてたまらないのだ。
───まだまだ。
敵将が利良の前に迫ってきた。今なら間違いなく当たる。だがここまで来たら、致命傷を与えたい。
雲間から一瞬差した陽光に馬の鞍が輝く。敵将が真横に来た。距離は十間もない。
「南無さあ」
利良が右手の人差し指に力を入れた。
轟音と共に反動が襲ってくる。それを下半身で堪え、前方に視線を戻すと、馬上に敵将がいない。その理由はすぐに分かった。敵将は馬の向こう側に落ちたのだ。
───当たったか。
多くの叫び声が聞こえると、長州藩兵が馬の向こうに集まるのが見えた。兵の間から敵将の足が見える。次の瞬間、敵将は姿を現したが、四肢を持たれて後方に運ばれていく。
───やった。
驚きの後に喜びが込み上げてくる。
敵将の周囲にいた者たちは一斉に浮足立ち、最前線にいる者たちは、後方で何があったのか気にし始めた。
弾がどこから飛んできたのか分からないのか、敵兵たちは周囲を見回している。
───こうしてはおられぬ。
見つかれば蜂の巣にされる。利良は枝を伝って門内に向かった。
味方も敵の異変に気づいたのか、怒号が飛び交い、銃撃もさらに勢いを増してきた。
「敵が引いていっど!」
味方の叫び声が聞こえる。
再び椋の木の枝を伝い、元の場所に降り立つと、次から次へと築地塀を乗り越えていく味方の姿が見えた。退却に移った敵を追撃するのだ。
喉が渇いて声が出ない。ようやく物頭の一人を見つけると、やっとの思いで言った。
「敵将を撃ちもした」
「おはんがか」
「はい。おいが───、川路正之進利良が敵将を撃ちもした!」
「よし、よし、分かった、分かった」
隊長の許に走っていく物頭の後ろ姿を見つめつつ、利良はその場にへたり込んだ。