23歳男性。生後一週間でマクローリン展開をする。四歳でハーヴァードに入学。六歳で数学の博士号を取る。二十歳で万物理論を完成させたのち、「コミュニケーション」の発明を行う古見宇発明研究所を設立する。
ニケ
32歳女性、千葉県出身。古見宇研究所助手。好きなものは竹輪とGINZA。嫌いなものはセリーヌ・ディオン。「宇宙の解」を知って絶望していた博士に「コミュニケーション」という難題を与え、結果的に古見宇研究所の設立に繋げる。
私は博士と幕張の浜辺で出会った。
そのときの私は、四年付き合っていた彼氏と別れたばかりだった。
七年間勤めていた会社を初めて無断欠勤し、学生時代に通っていた海浜幕張をひとりでフラフラ歩いていた。最終的に行き着いたのが浜辺で、平日の昼間だったし、季節が冬だったのもあって、私の他に誰もいないだろうと思っていた。
浜辺に出ると、意外なことにひとりだけ先客がいた。
どういうわけか白衣を着た男子高校生が焚き火をしていて、私は遠くからしばらくその様子を眺めていた。
彼は大きなリュックから次々と紙の束を取り出しては燃やしていて、なかなか焚き火は終わりそうになかった。時間が経つにつれ、私は彼が自分の高校の後輩かもしれないと思うようになり、学校をサボって焚き火をする彼の悩みを聞いてみたいと思うようになっていた。
少しだけ勇気を振り絞り、私は彼に近づき「ここは焚き火が禁止されてますよ」と声をかけた。
「それならあの看板を見たから知っているよ」と彼は私の背後を指さした。うっすらと無精髭が生えていたので、高校生じゃなくて大学生かもしれないと思った。
「でも、これは焚き火じゃないから」
「焚き火じゃないなら、なんですか?」
「絶望だよ。絶望は禁止されていない」
彼はそう答えて眼鏡を拭いた。
「絶望?」
「そう。僕は絶望したんだ」
「えっと、何にですか?」
彼は少し考えてから「宇宙に」と答えた。
「宇宙に絶望したんだ」
「はあ……」と私は白い息を吐いた。もしかしたら、関わってはいけない人に話しかけてしまったのかもしれない。
「大学生ですか?」
「科学者だよ」
「あ、えっと、何か発明をしたりする人ですか?」
「まあ、そんな感じだよ」と彼は呆れたような表情をした。
「それで、いったい何を燃やしていたんですか?」
「論文さ。これまで自分で書いたものをすべて燃やしていたんだ」
「はあ……」
「もう不要になったから燃やすことにしたんだ」
「どうしてですか?」
「さっき近くで学会があってね。僕はそこで、今までの自分の発見をすべて束ねる『万物理論』について発表してきたんだ」
「よくわからないですが、若いのにすごいんですね」
「その学会を終えて、僕は自分が二つの意味で絶望していることに気がついた」
「二つの意味?」
「ひとつは宇宙の解を見つけてしまったこと。それはつまり、もはやこの宇宙に探求すべき謎はひとつも残ってないってことなんだ」
「もうひとつは?」
「僕の理論をおそらく誰も理解できないだろうとわかったこと。発表後にあった質問もすべて的を外していたし、世界中の権威が集まっていたのに1%だって理解している人はいなかった」
「……」
私は「やはり関わってはいけない人に話しかけてしまった」と後悔しつつ、何か話さなければと思い、「でも、この世にはまだ探求すべき謎がたくさん残っていますよ」と口にしていた。
「たとえば?」と彼が聞いた。
「たとえば人の心とか答えがないって言いますし……」
「人の心?」と彼は笑った。「人の心にもかならず答えはあるよ。なぜなら宇宙に解があって、人間は宇宙内の現象のひとつだから」
「そんなことありません!」
どういうわけか、私はムキになって反論した。「答えがないから難しいんです!」
「君は唯心論を支持していて、人間の『心』が物質を超越した何かであると主張しているの?」
「そんな難しい話をしているわけではありません! 人間のコミュニケーションには正解がなくて、だから人々は喜んだり傷ついたりするんです。そんなに自信満々に『答えがある』っていうなら、私の悩みを解決する発明をしてください!」
彼は「いいよ」と頷いた。「それで、どんな悩み?」
「四年間付き合ってた彼氏が浮気をしていたから別れたんです。それこそ私も絶望してるんですよ」
「絶望するくらいなら別れなきゃいいのに」
「そんな簡単な話じゃないんです。もう彼のことを信じられなくなったというか……」
彼は「なるほど」と頷いた。「それなら二通りの『答え』があるよ。こんな簡単な問題、すぐに解くことができるさ」
「教えてください」
「ひとつは絶望を取り除くという答え。感情というのも物理現象の一種だから、君の脳内物質をコントロールして絶望を取り除けばいい。もうひとつは浮気を取り除くという答え。僕の万物理論を応用すれば11次元情報生命体に干渉して世界線をいじることができる。君の主観を『彼氏の浮気がなかった世界線』に移してしまえばいい」
「……そんなの答えになってません」
「どうして?」
「ズルをしているような気がするからです」
「別にズルなんかじゃないよ。科学的な解決さ」
「じゃああなたは、『新しい数学理論が無限に出てくる発明品』を作ったら満足なんですか?」
「その発明はチューリング完全ではないから理論的に不可能だよ」
「不可能かどうかじゃなくて、もしもの話をしてるんです」
「原理的に不可能な事柄に『もしも』は存在しない」
「だから、そうじゃなくて!」
「わかった。仮に可能だったとしよう。だとしても、僕は使わないと思う」
「それはなぜですか?」
彼は「うーん」と腕を組んだ。「自分の力じゃないような気がするからかな」
「そうなんですよ。私が言いたかったのはそういうことです。自分の力で解決しなきゃ意味がないんです」
「なるほど。君の主張はよくわかった。少し時間が欲しい。そうだね……。一週間だ。一週間あれば、君の絶望への『答え』を見つけてみせる」
「見つけられるならどうぞ見つけてください」
「うん、約束するよ」
彼はリュックの中身がすっかり空になったことを確認すると、大量の灰の上に砂をかぶせた。そして去り際に、「名前は?」と聞いてきた。
「ニケです」
私が「あなたは?」と聞く前に彼は去っていった。
その時点では、一週間後に彼と再会するなんて、思ってもみなかった。
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