あのこは貴族

愚かで自分勝手で許しがたい恥さらしの出戻り娘

【第39回】
東京生まれの箱入り娘・華子は、20代後半で婚活にのめりこんだ挙句、お見合いで出会ったハンサムな弁護士・青木幸一郎との結婚にこぎつけた。
しかし幸一郎に他の恋人(美紀)がいることを、華子の友人・逸子が知り、女たちは思いがけず巡り合う――。 アラサー女子の葛藤と解放を描く長編小説。単行本『あのこは貴族』、好評発売中!

—ケンカしたときはさぁ、コミュニケーションとるチャンスなんだから。本人と話さなきゃ、本人と。

 あの日、時岡美紀と会って話したことは、華子の大きな励みになった。逃げていないで結婚生活に正面から向き合いたい、幸一郎ともちゃんと話したいという前向きな気持ちが大きく膨らんだ。なにしろまだ結婚してほんの数ヶ月。やり直すもなにも、はじまってすらいないのだ。

 ところが、その年の暮れに幸一郎の祖父が入院し翌一月にこの世を去ったことで、運命の歯車は大回転をはじめる。

 八十九歳の大往生だった祖父の通夜には現役の政治家が顔を見せ、青木一族が経営する倉庫会社の社葬が後日改めて行われた。青山葬儀所前にずらりと整列し頭を垂れた喪服姿の社員たちの前を、一族全員がしずしずと入場する、その列のいちばん最後を華子が歩いた。

 四十九日が明けて一息ついたのも束の間、相続のことで弁護士の知識を頼りにされている幸一郎は、たびたび実家に呼び出されるようになる。問題は神谷町に所有している土地の評価額込みで割り出される莫大な相続税を、祖父の死後十ヶ月以内に現金で一括納付しなければならないことだった。おそらく最高税率がかけられることになるが、一等地にこれだけの土地を所有するために毎年数千万単位の固定資産税を払っており、いくら資産家といえども預貯金は目減りしていく一方で、億単位の相続税をポンと払えるような体力はもはや青木家にない。その上、伯父の政治活動にかなりの金をつぎ込んでおり、現金を作るためにすでに財産の大部分は切り崩されている。

 もちろん相続のことは以前からわかっていたことで、税理士から対策のスキームをさんざん提案されてきたが、頑固な祖父はこれをまったく受け入れず、ただただ土地を守ることに執着した。元は大名屋敷だった歴史ある土地を、自分たちの代で細切れにするわけにはいかないというのが祖父の考えである。祖父を敬愛する幸一郎は、その願いを叶えたい一心で奔走した。

 こういったピンチは夫婦の絆を強めるチャンスでもあるが、幸一郎はこの件に関して、「華子に言っても仕方ない」「華子は余計なこと言わないで」と、とかく華子を蚊帳の外に置いた。

 そして祖父の死の影響は相続だけでなく、幸一郎の仕事にも及んだ。幸一郎は弁護士事務所を辞めて伯父の事務所に入所し、私設秘書として選挙区である地方の小都市に通う生活をはじめる。伯父はすでに七十代、健康状態がすぐれないこともあって次期選挙に立候補する意欲は薄く、然るべきタイミングで幸一郎にバトンを渡したいということだった。また世襲議員かと批判されるのは目に見えているが、曾祖父の代から築き上げてきた家名と地位と後援会をフイにするわけにはいかず、選択の余地はなかった。

 週のほとんどを地元選挙区での活動に充てるようになった幸一郎との時間は、ごくごくわずかなものとなった。幸一郎がそこでどんな活動をしているのかを、華子はフェイスブック越しに知る。さわやかな作り笑顔で農家の人と共に写ったり、金屛風の前で演説する伯父の後ろにキリッと真面目な顔で立っている写真を見ながら、華子はどうにも違和感を拭えなかった。

 一人の政治家が、このようにして誕生しようとしている。華子と同じ小さな世界で、なに不自由なく生きてきた幸一郎のような特権階級の人が、いま、国民の代表として政治の世界に参入しようとしている。出馬すれば初当選は間違いないだろう。若く見栄えもよく経歴も素晴らしい幸一郎に、きっと世間も注目するだろう。もてはやされるだろう。華子はこれまで政治に特別の興味を抱いたことはなかったが、だからこそそのからくりのようなものを傍で垣間見て、空恐ろしい気持ちに駆られたのだった。

 怒濤の日々の中で、華子の存在だけがぽっかりと宙ぶらりんに孤独である。一日の予定がなにもなく、もともと社交的なタイプではない華子はマンションの部屋から数日出ないこともざらだった。そうなると昼まで寝過ごすようになり、昼夜は逆転して深夜に目がらんらんと冴える。当然、世の中との接点はテレビとネットだけだ。何年も前のドラマを観るのが唯一の楽しみとなり、ネットで自分と同じ状況の人を発言を読んで心を慰めるという生活になった。

 そんな暮らしを心から謳歌できるほど華子の神経は太くなく、自分はいったいなんのためにここにいるのだ、という実存的な悩みを抱くようになるが、母や姉たちに相談したところで「早く子供をつくればいい」と忠告され、ますます懊悩は深まるばかりであった。

「子供がいれば妻としての立場も固まるし、死ぬほど忙しくなるからさびしいなんて言ってられなくなるわよ。華子、赤ちゃん好きでしょ?」

 香津子のアドバイスはもっともなのだろうが、すっかりナイーブになっている華子にしてみれば、その手の露骨でしたたかな思考には拒否反応が出た。

 天気予報を見ても、一日中部屋にいて出かけない自分には関係のないことだと疎外感を感じるほど孤立している。そうして神経が昂ぶっていたところ、出張中の幸一郎へ〈帰りはいつですか?〉とすがるように送ったLINEが鮮やかに既読スルーされたとき、華子は泣いた。怒る気力もなくただただ泣いて、自分を憐れんだ。

 ありあまる一人の時間は華子にとっては毒になるばかりだった。天気が悪ければ雲の中にすっぽり隠れる高層マンションの部屋は独房のように精神を蝕んだ。華子には、向いていなかったのだ。放っておかれる妻という立場に、あまりに向いていなかった。誰もがうらやむようなお膳立てされた新居で、こんなにも暗く憂鬱な気分になるなんて、おかしいのは自分だと散々責めた。

 耐え切れず華子は、梅雨のはじまりとともに豊洲のマンションを出ることを決め、東京に戻った幸一郎に、いきなり離婚届を突き出した。

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あのこは貴族

山内マリコ

東京生まれの華子は、箱入り娘として何不自由なく育ったが、20代後半で彼氏に振られ、初めて人生の岐路に立たされた。焦ってお見合いを重ねた末に、イケメン弁護士「青木幸一郎」と出会う。 一方、東京で働く美紀は地方生まれ。大学時代に...もっと読む

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