披露宴のあと行われた二次会から新居に戻るなり、華子はあまりの疲れで倒れ込むようにベッドに臥せった。そして翌朝、ぱちりと目が覚め体を起こすと、広々した寝室に一人ぼっちなことに気づく。キングサイズベッドの端っこでぽかんと華子は、長い長い夢を見たあとのように頭の整理が追いつかない。
幸一郎からはLINEに、〈会社行くわ。ごゆっくり〉と簡潔なメッセージが残されていた。次の日のことも考えず、疲れにまかせて寝落ちしてしまった自分が悪いのだし、幸一郎になにか非があるわけでもないのだけど、それでも見捨てられたような気持ちが胸にわだかまった。シャワーを浴びて着替えても、ぼんやりとした寂しさはまとわりついて離れず、今日一日自分がなにをすべきかも、華子にはわからない。
沖縄への新婚旅行も終わり、新婚生活のリズムがつかめてきても、幸一郎との心理的な距離が縮まった手応えはなかった。披露宴のとき新婦友人席に時岡美紀がいたことすら、いまだ俎上に載せられていない。幸一郎はまるでなかったことのようにその話題に触れなかったし、そもそも忙し過ぎて華子とろくに会話をする時間もない。一人暮らしに慣れた幸一郎は朝食の用意くらいは自分でやり、たまに早く帰って食事の用意ができていなくても、別に機嫌を損ねるでもなく「じゃあ外で食べよう」と言い、どこまでも手がかからなかった。甲斐甲斐しく夫の世話をするつもりでいた華子としては、まるで自分が用無しの役立たずみたいで、自尊心はたびたびぐらついた。
そして九月に入ってすぐ、事件は起こった。出会って一年の記念日を華子は憶えていて、二人がはじめて顔を合わせたあの紀尾井町のオーバカナルで食事でもと提案したところ、
「それって意味あんの?」
本気の真顔で、幸一郎は言ってのけた。
それまで、どんなにカチンとくることを言われても飲み込んできた華子だったが、
「意味なんかないですよね!」
目に涙をいっぱいためながら思わず大きな声を出して、そのままマンションを飛び出してしまったのだった。そして行く当てもない華子の足は、つい実家に向いてしまう。
新婚たった一ヶ月で出戻ってきた華子を、「まあ、一泊だけなら」と家族は渋々——半ばうれしそうに受け入れた。そして父と母、さらには呼び出された長姉の香津子までが、入れ代わり立ち代わり、結婚とはなんぞやというありがたいお説教を華子に聞かせたのだった。
母は結婚とは我慢だと説き、
「そのうち子供でも産んで立場も固まったら、強く出られるようになるわよ」
と、新婚のうちはとにかく旦那様を立てることを推奨する。
でも、華子はすでにうんざりなのだった。どんなに時間をかけて料理を作ったところで、ありがとうも美味しいもない。料理教室で教わったとおり、彩りに木の芽をのせたり、香りづけに柚子の皮を削ったりしても、なんの感想もなく褒められもしない。せっせとワイシャツにアイロンをかけたところで、
「なんかシワシワなんだけど。クリーニングに出せばいいのに」
幸一郎はことごとく華子の労力を全否定した。
そのくせ几帳面でフローリングのほこりは見逃さず、幸一郎自らルンバのスイッチを押すが、それがなんだか小姑的なので、癪に障って仕方なかった。この問題に対し京子は、
「家政婦扱いされてると思ったら辛くなる一方だから、自分のことをメイドだと思いなさいね。イギリス貴族のドラマによく出てくるでしょう」
と、的を射ているようでやはり少しピントのずれたアドバイスをして、華子のことを大いに混乱させた。
父の宗郎は、それこそが結婚であると、むしろ幸一郎の肩を持った。男というのは社会という戦場で戦っている云々というくだりはさすがの華子も右から左に聞き流したが、とかく男は生活の細部に手をかける才能を欠いており、細かいことに気のつく女房に、食事から下着から用意してもらって支えられていないとダメな生き物なのだと、弱さや欠点を認めるようなことを言われると、情にほだされて優しくしてあげようかなぁと思い直したりした。
ところがそこへ香津子が来て、「結婚は最初が肝心よ」と新たな持論を展開し、華子は再びクラッシュした。曰く、恋人時代のままいい顔ばかりしていたら舐められてつけ上がってそのうち浮気でもされて最悪だから、最初のうちにせいぜい先制攻撃を仕掛けて、主導権をしっかり握るべきなんだそうだ。
「だからこのケンカ、絶対に華子から折れてはダメよ」
肩を叩いて激励されてしまった。
結局、バカらしくなって泊まりもせず豊洲に帰ったら、肝心の幸一郎がまだ帰宅しておらず、家出は未遂に終わってしまった。
この手の大きな諍いは、概ね一週間に一度の割合で起きた。幸一郎が使用済みのグラスをあちこちに放置する件について。リビングにラグを敷くかどうかで意見が割れて。髪を切りすぎたと嘆く華子に、「たしかにちょっと変かも」と言って火に油を注ぎ。豊洲は枝光会系のどの幼稚園からも遠いのが気がかりだと華子が本気で悩んでいると、「俺まだ子供作る気ないよ」とあっさり言われ。怒り出すのはいつも華子の方だったが、それと同時に実家に帰ってしまうので、話し合う余地もない。華子が実家でまたいろんな人にいろんな意見を吹き込まれて、なんとなく言いくるめられたり納得して気持ちにケリがついたら、一日も経たずにマンションに戻ってくるので、華子としてはケンカのつもりでも、結局いつもただのひとり相撲なのだった。
結婚生活がはじまって二ヶ月経っても、三ヶ月経っても、状況はまるで変わらなかった。そうして数え切れない悩みを持て余した華子は、これ以上家族に相談しても無駄だと悟り、幸一郎のことをよく知る人物と話がしたいと思った。美紀だ。
けれど果たして美紀を、そんな要件で呼び出していいものか。華子は自分の身勝手ぶりを恥じたし、相楽さん抜きで会話を弾ませられる自信もなかったが、結婚生活─つまりは華子の今後の人生すべてがかかっているとなると、なりふりかまってはいられないのである。
ちょっと相談したいことがあって、結婚式に来てくれたお礼も言いたいので……と、奥歯に物がはさまったようなメールを送ったのが十一月のはじめのことだった。美紀が快諾してくれ、翌々週には約束をとりつけた。
新居のタワーマンションから豊洲駅まで歩いて八分、そこから地下鉄でたった七分の距離を、華子はタクシーでやって来た。美紀から指定されたのは、有楽町駅を出てすぐにあるイタリアンレストラン。土曜日の午後とあって店は満席に近く、誰もが大声でやかましく話し、思わず入るのが躊躇われるほどの活気である。
広い空間いっぱいに四人掛けのテーブルが配置され、漆喰で装飾された天井にはシーリングファンが回る。先に来ていた美紀は、テラス席に腰掛けていた。Vネックの黒いニットにチョコレート色のストールを羽織って、ゴールドのフープピアスが耳たぶを飾り、唇だけきりっと真っ赤なポイントメイクがとりわけ目を引く。この店の洒落た雰囲気に、しっくりとマッチしていた。
華子は店にも、そして美紀にもかすかに気後れしながら、
「素敵なお店ですね」
と肩をすぼめた。華子としては、若くておしゃれな人でガヤガヤしたこの店より、昔から行き慣れた帝国ホテルのラウンジや銀座の資生堂パーラーの方がよっぽど落ち着く。
「あ、髪切ったんだね」
美紀に言われ、華子は恥じらうように後ろ髪を手で撫でた。ずっとロングヘアーをキープしてきたが、結婚後にどうしても気分を変えたくて、思い切って肩先あたりで揃えてもらっていた。
「ご注文はお決まりですか」
オーダーを取りに来た男性スタッフは、ダンガリーシャツのボタンをきっちり上まで留め、黒々した髪を横に撫でつけて、流行りの丸眼鏡をかけていた。顔の造作どうこうではなく、全身から都会的な雰囲気が漂う。注文を済ますと美紀は、「ちょっと気取りすぎだよね」と笑って目配せした。華子もまた「ですよねぇ」と同意し、場はすっかりなごむ。
「でも、すごく素敵なお店ですね」
華子は何気なく褒めたつもりだが、美紀は店内を見回すと、こんなふうに返した。
「あたし、こういうところが好きなんだよね。なんていうの? 田舎から上京してきた人が、東京ってこういうところだよなぁって、勝手に思い描いてるような場所」
「それってどういう……?」
華子には意味がよくわからなくて、思わず訊き返した。
「そうだなぁ、トレンディドラマのロケで使われそうな……って言ったらなんか逆にダサいんだけど、ザ・都会って感じの、華やかで、きらきらしたところ? ほら、そういう場所って、なんか独特の活気があるでしょ? 気合い入れておしゃれしてる人ばっかりで、うきうきするじゃない? まあ、みんな東京がアウェイだから、張り切っておしゃれしてるんだろうけど」
「アウェイだから、ですか?」
「だって地元なら、わざわざ着飾る必要ないからね。まぁそもそもあたしの地元には、着飾ってまで行くような場所がないんだけど」と美紀は自嘲した。
辺りを興味深げに見回す華子に、美紀はこう続けた。
「こういう店に来る人って、みんなどっか似てるでしょ。雑誌から抜け出したみたいっていうか。東京に憧れて、東京に馴染むようにおしゃれしてる人のおかげで、こういういかにも東京~って感じの場所は、もっともっと東京らしくなるんだよ。あたしはそういう人たちが作り出してる東京が、好きなんだよね。本物じゃなくて、フェイクなのはわかってるけど」
「……その東京って、どんなものでしょうか」
華子は純粋にそれが知りたくてたずねた。華子にとっての東京は、生まれ育った故郷にほかならない。でもさっきから美紀の口にする〝東京〟には、まるで別の意味合いがあるようだった。
美紀は「うーん、なんだろうね」と遠くを見つめながら、
「きっと、誰の心にもあるんだよ、上京してきた人の心にはね。上京でなくてもいい。東京に観光で来たことがある人も、テレビや雑誌でなんとなく見てるだけの人も、みんないつの間にか東京のイメージを刻み込まれてて、現実とは少し違うその場所に、ずっと変わらず憧れつづけてるんだよ。それが、東京。まぼろしの東京」