青木幸一郎の婚約者が現れる時間が近づくにつれ、時岡美紀はそわそわとラウンジの入り口あたりを気にしはじめた。すでに日が陰ってきており華やかな照明が際立って、ぐっとラグジュアリーなムードだ。
「どんな子?」
美紀がたずねると、
「育ちのいい箱入りのお嬢さま」
相楽さんは一切迷うことなく、そんな紋切型の形容を口にした。
「あのこじゃない?」
美紀の目はすぐに一人の女性を捉えた。
金ボタンのついたネイビーコート。セミロングの髪に控えめなメイクだが、愛らしい顔立ちなのは遠目にもわかる。外資系高級ホテル特有のはったりめいた豪華さに戸惑っている様子はなく、しかしどこかナーバスそうに、ラウンジを見渡して人を探す素振りをしていた。
「あのこです」
相楽さんはこっちこっちと手を振る。
テーブルに近づいてくる榛原華子の、まるで大学出たての娘のような若さ、好戦的なところのないふんわりした優しい顔つきを見ると、こういうのが幸一郎の求めていた結婚相手なのかと思い、美紀は暗に落ち込んだ。共通点がないというより、ほとんど正反対だ。
「はじめまして」
華子はまず時岡美紀に向かってぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、時岡です」
美紀はどんな顔をすればいいのかわからず、少し顔が引き攣ってしまう。
コートを脱いだ華子は、グレーのクルーネックカーディガンにパールのネックレスをつけていた。給仕係に差し出されたメニューを受け取るときの、さりげない会釈。注文するときの声の感じのよさ。コーヒーではなく迷わず紅茶を選ぶ嗜好。パテントレザーのバッグを背もたれの前にちょこんと置く、身についたマナーのよさ。華子の一挙手一投足が目に飛び込んできて、そのいちいちにはっとするような驚きと、それから敗北感を感じてしまうのだった。
華子を見ていると、否応なく慶應の内部生の女子たちのことが思い出された。育ちのよさと幅広い経験に裏打ちされた、堂々たる振る舞い。一度も酷い目になど遭ったことがないような、つるりとした顔と子供じみた瞳。その無傷な感じは、人を蹴落とそうとする気持ちなど抱く必要のない世界で生きてきた証のようだった。
華子の第一印象は、美紀が内部生と交流したときの数少ないデータと寸分違わぬものである。自分たちのサークルに正式に招き入れてくれることは決してないが、彼らは話してみれば優しく、嫌な気持ちにさせられたことはなかった。ただそれが逆に、美紀にしてみれば、自分たちの世界とは隔てられている見えない壁の、その圧倒的な分厚さ、高さを思わせ、いつも一方的に、かすかに傷ついてしまうのである。これは青木幸一郎と一緒にいるときにも、たびたび味わう感情だった。
企画立案者でありレフェリーでもある相楽さんが、双方に説明した現況をおさらいした。
「こちらが、青木幸一郎と婚約中の、榛原華子。で、こちらが時岡美紀さん。お正月のパーティーに、青木幸一郎と一緒に来てた方」
美紀と向かい合うと、華子は明らかに緊張した様子である。
「どうも、はじめまして」
声をかすかに震わせて華子から挨拶するも、美紀の目をまっすぐには見られないようだ。
「はじめまして」
美紀は軽く会釈する。
すでにかなり打ち解けている美紀と相楽さんのリベラルな空気に、華子の存在はどこか場違いな感じになった。紅茶が運ばれてくると、華子は沈黙をごまかすように口をつける。
「大丈夫? 迷わなかった?」
相楽さんがくだけた調子で訊くと、
「前に来たことあるから」と華子。
「そうなんだ、意外。華子んちからはちょっと遠いよね、ここ。あんまり使わないかなーって」
相楽さんの言葉に華子はもじもじしながら、
「お見合いのときに一度……」
と小声で言い、かすかに場を凍らせた。
華子はいたたまれない様子で、手持ち無沙汰からかバッグの中をごそごそやると、封筒を取り出し、相楽さんに「これ、母から」と言っていきなり渡した。
「ん? なに?」
「三井家の、『おひなさま展』のチケット。知り合いからもらったものなんだけど、お母さんがせっかく日本橋に行くなら見てらっしゃいよってくれたの。相楽さんにも一枚どうぞって」
「ああ」
相楽さんは興味なさげにつぶやいて、
「あたし、いいわ。前に一回見てるし。そんなに内容変わらないでしょ?」
まったく悪気なく、率直に断った。
「前にもやってたの?」
美紀がたずねると、当たり前でしょうという感じで、相楽さんも華子もうなずいた。
「毎年春先に、三井家が持ってる雛人形が、三井記念美術館で展示されるんです。このビルの一階から入って、隣の三井本館にあるんですけど」と相楽さん。
「ああ、あの神殿みたいな建物?」
「そうですそうです。去年は母親に誘われて行ったんですけど、どーもあたしはそこまで興味なくて。池田重子の『日本のおしゃれ展』とか、うちの母親、ほんとそういうのが好きみたいで、よくつき合わされるんですけど」
相楽さんは冷めたコーヒーに手をのばし、「新しいもの、もらえます?」と給仕の女性を呼び止めてメニューをもらった。
美紀は彼女たち二人のこういった会話が、東京を長年回遊する女性たちの間に、共通している特有の文化のように思えて新鮮だった。母親に連れられて美術館へ行き、恒例となっている展覧会のことを、当然のように話題にするこの感じ。東京出身者に挟まれ、美紀は疎外感にさいなまれながら、それを悟られないように気配を消した。みんなが常識として普通に話していることに、少しだけ無理して、ついていかなくちゃいけない。それがここのしきたりなのか、作法なのかとあたりを窺いながら、薄笑いを作って実感のこもらない相槌を打ち、感心したり学習したりしている。東京に来たばかりのころは、よくこんなことがあった。
「お雛さまか。うちは小学生までだったな、飾ってくれたの」
そう口にした美紀の〝普通〟は、彼女たちにとっては普通でなかったらしい。相楽さんが驚いたようにこう言った。
「そうですか? うち、いまも飾ってますよ。母がそういうの好きなんで。でもさすがに雛壇を組み立てるのは大変だから、アップライトの上に適当に並べてますけどね。あ、これ写真」
相楽さんが見せてくれたスマホの写真に写っているのは、ピアノの上に敷かれた毛氈の上の台座にちょこんと座った、一対のお雛さまだ。お餅のような福々しい輪郭に、筆で線をスッと引いたような目をしている。
「あ、なんか変わった顔してるね」美紀が言うと、
「あたしが生まれたときに作ってくれたやつなんですけど、どうもおばあちゃまの趣味が炸裂してて」
相楽さんは困り顔でこたえた。
おばあちゃま……?
その呼び方に、突っ込んでいいのか、それともスルーすべきなのか、美紀は彼女たちの出方を窺い、その呼び方がこちら側の世界での〝普通〟であることを察した。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。