「で、どうするんですか?」
振り返ってみれば、いつもター坊はこう言っていたような気がする。
多分、ター坊はオーディションで優勝する前から、福岡吉本に疑問を感じていたのだろう。
もちろん、僕たちだって多少なりとも疑問を抱えていたが、ああ見えて他の誰よりも繊細な性格をしていたター坊は、最初からかなり真面目に福岡吉本と、そして自分の人生と向き合っていたのだと僕は思う。
僕たちが福岡吉本に入って間もない頃、とあるテレビのインタビューで所長の吉田さんが、今後の抱負を聞かれてこう答えたことがあった。
「福岡吉本の目標は、ばってん荒川さんを100人作ることです」
ばってん荒川さんとは、ここで説明するのも野暮なほどの、九州を代表する喜劇人のことである。
少なくとも僕の周りに、熊本を中心に九州全土で活動していた荒川さんを知らない人はいなかったし、僕ら世代の九州人は大半が、初めて生で見た芸能人=ばってん荒川さんということになるだろう。
しかも荒川さんは1970年代には全国ネットでも活躍していたから、活動の中心は九州とはいえ、いわゆるローカルタレントという枠にはとても収まりきらない、別格中の別格という存在だったのだ。
お婆ちゃん役を得意としていた荒川さんは、客前では基本的にムームーなんかを着た「お米ばあさん」に扮していて、そんな荒川さんを僕たちは親しみを込めて「ばってんさん」と呼んでいた。
当時の福岡県で、ひいては九州全土を対象にして、お笑いのビジネスモデルを模索すれば、誰だって「ばってん荒川」さんにたどり着いただろうし、それ以外の選択肢はなかったと思う。
そして今なら、吉田さんの言葉の意味も理解できる。十分過ぎるほど理解できるのだが、この頃の僕たちは吉田さんの言葉から、その真意を受け取ることができなかった。
「ばってんさんに、なれるんかね?」
「ていうか、ならないかんと?」
「そもそも熊本の人やし」
「ばってんさんって、婆ちゃんばい!」
決して、ばってんさんを見下していたわけではない。
当時、ハタチそこそこの僕たちにとって、既に50代の半ばだったばってんさんは、それこそ小さい頃から見てきたということもあり、あまりにもかけ離れた存在だったから、そこを目標にしろと言われてもピンとこないというか、まったくもって現実味がなかったのだ。
「吉田さん、本気で言いようとかいな?」
「さあ、どうなんやろね?」
「婆ちゃんの格好とか、します?」
「……するわけなかろうもん!」
ばってんさんの芸ではなく、ばってんさんのように九州中から愛される芸人を目指しなさいという、そんな単純なメッセージすら見逃していた僕たちは、やっぱりこの時、どうかしていたんだと思う。
しかし、その原因も今ならわかる。
この頃の僕たちは吉田さんの徹底した「地元志向」と「吉本重視」に、心のどこかで辟易していたのだ。