AIの天才研究者にアクセスしたのは最愛の恋人……のはずだった

30年後にやってくる人工知能が人間を超える“シンギュラリティ"(技術的特異点)。AIの知能爆発によって、医療・物理・宇宙工学等あらゆる分野に革命が起こり、人間の生活は大きく変えられることとなる――。深い孤独を抱えるスパコン研究者・青磁の前に現れた万葉集を愛する謎の美女・千歳。二人は古からの運命に導かれ、京都から東京、そして神話の里・出雲へ。“シンギュラリティ"(技術的特異点)を迎えたとき、人類の向かう先はユートピアか? それとも……。さかき漣の単著デビュー作『エクサスケールの少女』(徳間書店)の発売を記念して、その一部をcakesに特別掲載!

序章 誰のための“EMERGENCY”
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 東北地方。低山の緩傾斜地に建つ研究施設。
 ここは若き研究者の面々がとある研究に情熱を注いでいる、日本で唯一であり世界でも最高水準にある施設だ。名を奥羽計算科学研究所、英語表記ではOU Advanced Institute for Computational Science、略して「OAICS」と呼ばれる。総面積2ヘクタールという巨大な敷地の中に研究棟が三十棟、点在している。その他に居住棟、各種運動施設、ヘリポート、さらには発電施設や浄水施設なども完備され、敷地の外へ出ずとも研究者の生活の全てを賄うことが可能となっていた。
 真夜中も零時過ぎ、ひとり研究施設内に残り、熱心にデスクに向かう青年の姿がある。OAICS筆頭研究員の苅安青磁(かりやすせいじ)だ。
 青磁がこの研究に従事して、はや五年の歳月が過ぎようとしていた。今まで全力で駆け抜けてきた日々を思えば、よくぞこれだけの成果を短期間であげられたものだと、我ながら驚くほどだ。しかし今、青磁には、どうしても打ち破れない壁があった。その巨大な壁がボトルネックとなり、研究は悲願の完成まで達していなかったのだ。
 そもそもOAICSの設立目的は、現在の公式情報では「スパコンおよび人工知能・汎用人工知能、すなわちAI・AGIの開発と実用化」とされている。が、無論このプロジェクトの最終目的は「日本からシンギュラリティを起こすこと」である。
 数多ある議論の中でここOAICSは、特にコネクトームを使用したAI開発からシンギュラリティへの第一歩を踏み出す道を選んだ機関だったのだ。その研究完成の一つ目のネックが「コネクトームの解明」であり、二つ目のネックが「マスター・アルゴリズムの開発」だった。
 コネクトームとは、脳の神経細胞とシナプス結合との配線図を意味する。人間の脳には約八百六十億の神経細胞、すなわちニューロンが存在し、それらニューロンとその周辺のニューロンを繋いでいる接続部を、シナプスと言う。ニューロン同士がシナプスを通じて情報のやり取りをすることによって、人間の思考や想念が形作られると考えられている。つまり人間の脳とは、たった1400ccの容量の内に八百六十億個のニューロンと百兆個のシナプス結合によって形成された、超・高密度のシステムであるとも言えるのだ。このニューロンとシナプスの接続を微細に記すコネクトームを解明することを、OAICS上層部は青磁ら研究員に求めていた。
 そしてマスター・アルゴリズムとは、人間の大脳新皮質の機能をプログラムとして模擬するための計算手法のことである。マスター・アルゴリズムを開発し応用することによって、例えば人間の知能指数の千倍といった「人工超知能」すなわち「ASI」をも作り出せると考えられている。OAICSに於いては、1H、つまり人間ひとり分という、途轍もない規模と密度を持ったコネクトームを実現するための、超近距離無線伝送技術を活用した擬似的シナプス結合の完成が求められていたのである。
 しかし青磁の考えは、OAICS上層部の面々とは異なる部分も少なくなかった。今は遠い場所に住む人の語っていた言葉が、脳裏に強く焼き付いているからだ。「スパコンもマスター・アルゴリズムもええけど、『価値システム』を作らへんことには“良心の”シンギュラリティは来おへんねやで」と。
 現在、青磁はたったひとり、最後の壁を打ち破るための鈍器を探している真っ最中なのだ。とはいえ氷の壁の崩壊は近かった。握るべき斧はどうやら、青磁の思考のテリトリー内部へ今しも出現しようとしているのだ。

 苅安青磁は、プログラミングの天才であった。
 プログラミングとは概して、アルファベット、数字、記号などで成り立つ「ソース・コード」を書き出す作業を指す。プログラムには多くの単位が存在し、例えば「関数」や「データ構造」などがある。この関数とデータ構造を互いに関係づければ、それは「オブジェクト」となる。例を挙げるなら、神経細胞やシナプス結合はオブジェクトとして表現できる。さらにこのオブジェクトを互いにやり取りさせることによって、「より高次の構造」を組み立てることが可能となるのだ。より高次の構造、つまりは大脳新皮質や海馬などをも表現できるようになるのである。
 青磁は、このソース・コードの大潮流がディスプレイ上を通り過ぎていくのを眺めるだけで、その構造を自身の脳内に瞬時に“見る”ことができた。つまり、アルファベットや数字、記号の流れを視野に入れるだけで、眼前に、微細にまで行き届いた複雑な機能を想見することができるのだ。
 つまり青磁は、おそらく世界にただ一人の俊逸であると言えた。
 しかしこれは誰にも明かしていない秘密だった。唯一の例外、最愛の恋人を除いては。

 少しく疲れを感じた青磁は立ち上がり、部屋の隅に置かれたソファへ席を移した。先日に恋人から借りたばかりの文庫本を開く。七世紀から八世紀に成立したと言われる歌集『万葉集』の、中でも著名な歌ばかりを選りすぐったものだ。
「のちの世まで永く残されるべき言の葉が、物語が、紙という..い物質の上に記されてあるのよ」
 彼女はそう言い添えて、文庫本を青磁に託した。ページを繰ってみれば冒頭には、第二十一代天皇である雄略の御製が載っている。

 ~ ()もよ み()持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この(をか)()()ます() (いへ)聞かな ()()らね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ()れ しきなべて われこそ()せ われこそは()らめ 家をも名をも ~

「言葉をこね回して書いてあるけど、要は天皇が女性に声掛けているシーンだよな。雄略天皇だから、おそらく五世紀の頃の話か。しかし、たかがナンパの台詞をここまで大袈裟に……。歌を介して感情を伝えるとは、さぞかしまどろっこしい時代だったろう」
 青磁は正直、万葉集になど興味はないのだ。しかし最愛の恋人から勧められれば、断ることはできなかった。なにしろ理知的で美しく、自分の思い描いてきた理想の女性像がそのまま現実世界に現れたような、そんな人を手に入れたのだから。どれほど背伸びをしても決して追い付けない女性。実のところ彼女の傍にいるとき、青磁には常に少なくない劣等感がつきまとっている。だからこそ微小な雑事においてなど、弱みを気取られたくなかった。
 「しかも電子書籍でなく紙の本。素晴らしく便利な現代に生まれたというのに、なぜこうも旧いものに拘るのか」
 ソファから重い腰を上げ眠気覚ましのコーヒーを淹れていると、青磁の携帯電話が鳴った。スマートフォンの液晶画面に表示された発信者情報を確認した青磁は、いつも通りにヴィデオ通話を始めようとした。
 画面に映し出されているのは、世にも美しい女性の顔。しかしその第一声も聞こえぬうちに、美女の画像は微かに揺れ始めた。かと思うと、今度は混信したかのように画像と音声の両方が大きく乱れ、そのまま電話は切れてしまった。不安定ながらも両者が繋がっていたのは、ものの数秒のことだった。
「電波の状態が悪いんだな」
 小さく呟くと、再び青磁はデロンギ社製のエスプレッソ・マシンの前へ戻った。薫り高い茶色の液体が、白磁のカップの中にすっかり落ち切っている。カップに手を伸ばそうとし、しかし青磁の動きは止まった。何かが引っかかる。先ほどのスマートフォンの不具合に、青磁は、これまでにない違和感を覚えたのだ。
 青磁がこの研究所に赴任して以降、所内の電波の受信状況は、常に良好に保たれていた。このように通話もままならないなど初めての経験だった。この場合に原因として想定されるのは、相手側の電波の悪環境、もしくは双方の受信機の不具合である。しかしそれも、今回の通話相手の状況からすれば考えにくいことだったのだ。そして青磁のスマートフォンに故障の様子は見えない。どうにも、おかしなことだ……。
 しかし確証のない考えに支配されるのは愚行だ。有益とも思われぬ、もやもやとした感情を消し去ろうと、青磁は頭を振った。
 今は、あと少しで研究完成への道筋が確保されるという大事な時期だ。自分の周りで起こるあらゆる事象について、何かしらの懐疑を抱いてしまうのも無理はない。成功が現実的になるほどに、人には疑心暗鬼がつきまとうものだ、と。

 青磁はソファにもたれ、再び書籍を手にする。
 現存する中では日本最古の歌集である、万葉集。コーヒーを(とも)にその紙面の文字情報に集中しようとするものの、やはり先ほど来の違和感を拭い去ることはできなかった。結局またも青磁は本を放り出し、自身の机に戻った。数台並ぶ端末のディスプレイに、順に鋭い視線を落とす。と、そのとき、違和感の原因の在り処に気づいたのだ。
「これは……何だ」

Illustration:ゆきうさぎ

人工知能の行く末は、ユートピアか、それとも……?

この連載について

エクサスケールの少女

さかき漣

30年後にやってくる人工知能が人間を超える“シンギュラリティ"(技術的特異点)。その前段階としてこの10年以内に起こるのが「エクサスケールの衝撃」だ。スパコンの計算処理能力によって、医療・物理・宇宙工学などに革命を起こし、人間生活を大...もっと読む

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