相楽逸子は子どものころから生まれ育った世界がどうにも息苦しくて、ここではないどこかに自分の真の居場所がある気がしてならなかった。幼いころからなんとなく窮屈であった自分を取り巻く環境や人間関係からの解放を、逸子は海外に求めた。その地がドイツで、大学での専攻がヴァイオリンとなるとどこか浮世離れした話に聞こえるが、実質それは単なる〝上京〟であることに、彼女はあるときふと気がつく。心臓がドクドク脈打つように、東京は生き物のように胎動し、数十万数百万という人がそこへ吸い込まれときに吐き出される。けれどその奇怪な場所が自分の故郷であるなら、どうすればいいのだろう。そこは底なしに享楽的で、それでいて心安く、居心地だってたしかに悪くはないけれど、あまり長居をすると自分が生ぬるい俗世にからめとられていくようで、理由不明の苛立ちに襲われた。そうして居てもたってもいられず飛び出したくなるのだった。どこか遠くへ。うんと遠くへ——。
ある土曜の午後、日本橋にあるマンダリンオリエンタル東京のラウンジの窓辺の席に、逸子は足を組んで座っていた。Vネックのハイゲージニットもミニスカートもストッキングもショートブーツも、なにからなにまで黒尽くめで、脇に置いたバレンシアガのバッグだけが強烈に赤く、いかついスタッズが光っている。窓の外はすっきりと晴れ渡り眩しいくらい日が差して、西向きの巨大なガラスからは高層のオフィスビルを望み、そのはるか遠くには富士山らしきシルエットがぽっかり浮かぶ。その景色を、逸子は退屈しのぎに眺めていた。
「お連れ様がいらっしゃいました」
給仕係の女性にしずしずと声をかけられ、彼女は顔をあげる。女性はホテルの名前そのままに、東洋のどこの国の民族衣装ともつかない、不思議にエキゾチックな制服を纏っていた。ぴっちりと横分けにした黒髪をきつくお団子に束ねているせいで、顔全体がきりりと硬質な印象。その女性の背後から、時岡美紀が遠慮がちに顔を覗かせた。
「こんにちは……すごい迷っちゃった。日本橋なんてほとんど来たことなくて」
美紀は照れ笑いしながらするするとコートを脱ぎ、逸子と向かい合った椅子に腰を下ろした。白いニットにぴったりしたデニムとベージュのハイヒール。髪にも頰にも艶が差して垢抜けているが、差し出されたメニューをめくる指はすっかり肉が落ちて、そのはっとするような細さがかすかに年齢を感じさせた。
「こんにちは。すいません休みの日に。なんかお呼び立てしちゃって」
逸子の言葉に、美紀は「いいのいいの、こういうとこ来るの楽しい」とくだけた笑顔を見せ、きょろきょろ辺りを見回す。「どれにしよっかなぁ」と逡巡したのち、美紀がコーヒーを頼むと、逸子も同じものをと給仕係に頼んだ。
美紀はマンダリンオリエンタルの高級感溢れる内装や窓からの眺望に興奮ぎみで、「もしかしてあれ、富士山じゃない?」などとスマホのカメラを向けたりしている。それから、
「あ、もう一人来るんだよね。どんな子?」
と向き直ってたずねた。
美紀には前情報として、ただ「会わせたい子がいる」とだけ教えている。それでてっきり、気が合いそうとか、趣味が合いそうとか、そういった意味に美紀は受け取っていたのだろう。美紀が無邪気に目を輝かせるので、逸子は少し申し訳ない気持ちで、言葉を選んで話しはじめた。
「ごめんなさい、実は、これはそういう、楽しいやつじゃないんです。ていうかむしろ、全然楽しくない会なんです」
「……どういうこと? 会わせたい子って誰? 誰が来るの?」
美紀は不安そうに表情を曇らせる。
「来るのは、榛原華子っていう子です。あたしの小学校からの同級生です。でもちょっと先に、あたしから時岡さんにいろいろ話しておきたかったんで、彼女には一時間遅れて来るように言ってあるんです」
その用意周到さに美紀は警戒心を強めたようで、
「え、ごめん、なにごと……?」
目をきょろきょろさせながらまごつくが、逸子がしきりに安心してくださいと言ってなだめるので、ともかく話を聞くわと承諾したのだった。
「あとでここに来る華子って子は、いま婚約中なんです。華子、去年ずっと婚活してたんですけど、やっとピッタリの相手と出会えて。で、その相手っていうのが……この間、時岡さんと一緒にパーティーに来られていた、青木幸一郎さん、なんですよね」
「……なんて??」
あっけにとられた顔で、美紀が訊き返した。
「青木、幸一郎」
逸子ははっきりとした発音で繰り返し、重ねてこうたずねる。
「青木さんが婚約されてるの、ご存じでした?」
美紀はぽかんとした表情のまま首を横に振った。
「やっぱり……。だと思いました」
逸子の声には、青木幸一郎への落胆がにじんでいる。
「ごめんなさい、先に言っておくと、あたし時岡さんと青木さんのお二人と会ったあと、彼が華子の婚約者なんだって気づいて、それですぐ華子に、チクっちゃったんです」
「……チクっちゃったんだ」
美紀は反芻し、わずかに苦笑いを見せる。
逸子は両手の指をクロスさせてぎゅっと握りながら、こう続けた。
「お二人がただの友達っていうパターンも一応考えたんですけど、でもあの空気感からして、なんか恋人同士っていうか、むしろ夫婦かってくらい馴れ合ってる感じだったし、もう直感でこの二人なにかあるって思って……。華子に慌てて連絡して、それでそのあと、時岡さんにもう一回話しかけたんです。今度会いましょうって」
「……仕組んだの?」
美紀はショックを受けた様子だが、
「あ、そういうつもりではないんです」
逸子はいたって軽く、しかし凜として〝NO〟と主張したのだった。
「最初に断っておきたいんですけど、あたし別に、二人のキャットファイトが見たくてこの場をセッティングしたわけじゃないんです。対決させようと思ってるわけでもないし、時岡さんに手を切ってくれ、みたいなことを言うつもりも、あたしはあんまなくて……。むしろその逆で、ケンカしてほしくないっていうか、二人に変なふうに揉めてほしくなかったんです。だから、あとでバレて泥沼のおおごとになる前に、ショック療法みたいに先に会わせちゃえ! って。全部あたしが勝手に動いてることで」
美紀は面食らいながらも、「なるほど」とつぶやき、運ばれてきたコーヒーにミルクを垂らすと、そっと口をつけた。逸子もまたカップを持って一口啜り、砂糖とミルクを入れてもう一口。そして向き直ると、逸子は遠慮がちにたずねた。
「まず最初に、時岡さんと青木幸一郎がどういう関係か、華子が来る前に訊いちゃってもいいですか?」
「い、いいよ」
美紀は戸惑い、口ごもり、少し笑いながら、自分たちのこれまでの歴史を端折って説明した。大学で同級生としてすれ違っていた過去、再会劇。そして腐れ縁化していったここ数年のぐだぐだっぷり。
「で、好きなんですか? 青木幸一郎のこと」
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