23歳男性。生後一週間でマクローリン展開をする。四歳でハーヴァードに入学。六歳で数学の博士号を取る。二十歳で万物理論を完成させたのち、「コミュニケーション」の発明を行う古見宇発明研究所を設立する。
ニケ
32歳女性、千葉県出身。古見宇研究所助手。好きなものは竹輪とGINZA。嫌いなものはセリーヌ・ディオン。「宇宙の解」を知って絶望していた博士に「コミュニケーション」という難題を与え、結果的に古見宇研究所の設立に繋げる。
電車の中で、目が覚めるとなぜか泣いている。
そういうことが時々ある。
見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。
ただ、〝君津〟あたりが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからもなんとなく残る。
私はあふれていた両目の涙を拭い、私は電車の窓の外を見た。
心に強く残っていた「君津あたりがポッカリ抜け落ちてしまったような感覚」が少しずつ消えていく。
その日私は博士と一緒に、西千葉で行われる学会に出席するため、総武線各駅停車に乗っていた。
千葉県出身の私にとって見慣れた光景だった。窓の外をぼんやり眺めながら、江戸川を渡って千葉県に入るのを楽しみにしていた。
異変が起こったのは江戸川を渡ってすぐだった。
どこか見慣れない風景だな、と思いながら窓の外を見ていると、「山田うどん」だの「ヤオコー」だのと、見たことのない店が目に入ってきた。
全身が何かに吸いこまれるような、そういう感覚がしていた。
ちょっと帰らない間に千葉も変わってしまったのかな、なんて考えていると、別の乗客が悲鳴をあげ始めた。
「嘘だ!」
サラリーマンの一人が叫んだ。「これって埼玉じゃないか!」
「埼玉の空気なんて吸ったら、全身が埼玉になっちゃうわ!」
別のおばさんはそう叫んで失神した。
私はそうだったのか、と思わず手を叩いた。時空が歪んでいるような独特の感覚は、自分たちが埼玉に入ってしまったからだったのだ。
何か考えごとをしているのか、それとも眠っているだけなのか、とにかく目をつぶっていた博士の肩を叩いた。
「博士! 大変ですよ!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
博士が目をこすりながら言った。
「どういうわけか、今私たちは埼玉にいるんですよ」
「何を言ってるの?」
「時空が歪んでる感覚がしたので、おかしいとは思っていました。何かの用事で埼玉に入るといつもこの感じがするんです」
「時空が歪んでいる?」
「とにかく埼玉なんですよ、ここ」
「僕たちは総武線に乗っていたんだから、そんなはずは——」 博士はそこまでしゃべってから窓の外を見て、言葉を失ったようだった。
車内は混乱に包まれていた。すぐに電車が次の駅で停車して、私たちは押し流されるように駅のホームに降りた。
その瞬間、私はあまりの事態にがくりと膝をついてしまった。
本来市川駅に着くはずの電車が、埼京線の戸田公園駅に着いていたのだ。
「信じられない……」 思わず私はそう口にしていた。
博士は「学会に遅れてしまうかもしれない」と、珍しく少し焦っているようだった。
他の乗客はとにかく怒り狂っていた。当たり前だろう。みんな千葉県民なのだ。千葉県民には、「埼玉」という名前を出すだけでも不機嫌になる人も多い。
隣にいた女子高生は「埼玉のくせに騙すなんて、マジで許せない!」と拳を握りしめている。ある男性は「よりによって埼玉と間違えるなんて最低だ!」と怒鳴り、別の女性は「千葉を返して!」と泣き叫んでいる。
一部には「茨城じゃなくてよかった」と胸を撫で下ろしている人や「神奈川がよかった」と言っている人もいたけれど、そういう問題じゃないと思った。
ホームに「お急ぎのところ大変申し訳ございません」というアナウンスが聞こえて、みな一瞬静かになった。
「この電車は総武線各駅停車、千葉行きでしたが、なんらかのトラブルのため、埼京線の線路内に侵入してしまったようです。お急ぎのところご迷惑をおかけしますが、この電車は戸田公園駅でしばらく停車いたします」
「嘘だ!」と誰かが言った。「嘘だと言ってくれ!」
「こんなダサい空気を吸ってたら、私までダサくなっちゃう!」と別の誰かが泣き始めている。
「博士、なんとかなりませんか?」
私は博士に泣きついた。自分の故郷がなくなってしまったのではないかと不安だった。
博士は「情報を収集するから待ってて」と言い、カバンから取りだしたガラス板のようなものをキーボードみたいにカタカタと叩いた。
しばらくしてガラス板をカバンに戻し、代わりにペンを取りだすと、博士は左手に何かを書き始めた。数式か何かのようだ。
博士がようやく書き終えて一人で頷くと、「ようやく事態がつかめてきたよ」と大きく息をついた。
「何が起こってるんですか?」
「今発生している災害は四つ。一つ目は総武線がなぜか埼京線に接続していること。二つ目は埼京線がなぜか総武線に接続していること。三つ目は川口市や春日部市、秩父市などに海があること。四つ目は千葉県南部が消滅したこと」
「大変じゃないですか!」
博士は黙ってメガネを拭いている。私はあふれそうな涙をこらえている。
「ど、どうじていっぺんにそんなことが……」
「ニケ君、いいかい。落ち着くんだ」
博士が私の肘に触れる。肩は届かないらしい。
「複数の特殊な事態が同時に起こったら、何か共通の一つの原因があると考えるのが科学者なんだ」
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