一故人

三笠宮崇仁親王—皇族、軍人、そして歴史学者として

昭和天皇の末弟であり、オリエント史の研究者としても知られた三笠宮崇仁親王。その生涯は歴史に寄り添ったものでありました。今回の「一故人」では、三笠宮崇仁親王の足跡を辿るとともに、その人柄を偲びます。

「紀元節」復活反対の真意

国民の祝日に「建国記念の日」が追加されたのは1966年のことである。ただし国会での法案通過の時点ではまだ日付は決まっていなかった。それが戦前の祝日「紀元節」と同じ2月11日に確定したのは、同年12月8日の「建国記念日審議会」の投票によってであった。審議会の答申を受け、あくる日には政令が公布され、翌67年に初の実施にいたる。

紀元節は、明治初めの1873年の太政官布告により、『日本書紀』の伝える神武天皇即位の日として2月11日と定められた。戦後の1948年に廃止されたものの、1951年に当時の首相・吉田茂が「復活させたい」と公言して以来、復活に賛成する保守勢力と、反対する歴史学者や革新団体・宗教団体などとのあいだで議論が繰り広げられる。そのなかにあって、昭和天皇の末弟でオリエント史学者でもあった三笠宮崇仁親王(2016年10月27日没、100歳)が反対の立場をとり、波紋を呼んだ。

皇族でありながら、なぜ三笠宮は建国記念の日の制定に異を唱えたのか? ここで留意したいのは、宮が問題視したのはあくまで2月11日という日付であり、その前提となる神武天皇の説話を否定したわけではない点だ。これについて宮は、『文藝春秋』1959年1月号に「紀元節についての私の信念」という一文を寄せ、くわしく説明している。

それによると、『日本書紀』では、神武天皇即位の日は「正月 ついたち 」、すなわち元日とされていた。2月11日という日付は、1872年の太政官布告で元日を太陽暦に変換して1月29日と一旦は定められたのを、翌年になって変更したものだ。そもそも日本で暦が正式に用いられるようになったのは推古天皇の時代なので、それ以前の暦日は絶対的なものとはいえない。ゆえに即位の日が元日であったというのも、後世の人の作為であることは明確だ—というのが、三笠宮の論拠だった。

なお三笠宮は同じ文章で、戦前に用いられた神武天皇即位の年を元年とする「皇紀」もはっきりと否定している。第一、『日本書紀』には、神武天皇即位の年は、干支でいうところの「 辛酉 かのととり年」と記されているにすぎない。皇紀はこの記述を踏まえ、中国より伝わった 讖緯 しんいという説にもとづいてつくられたものだった。

讖緯説では、辛酉の年には大変革が起こると前提され、辛酉が一巡する60年を1単位とし、21単位=1260年を1周期として歴史の時代が変革されると考えられていた。日本の場合、推古天皇の第9年(西暦601年)が辛酉にあたっていたので、これを基点として1260年前にさかのぼり、神武即位の年としたのである。ただし、それは西暦でいえば紀元前660年と、現実の日本列島はまだ縄文時代にあたり、考古学的な見地からすれば無理がある。三笠宮はそこを突いたのだった。

このように皇紀も紀元節の日付もはっきりと架空としてしりぞけながら、しかし三笠宮は神武天皇の説話まで否定はしなかった。むしろ説話の科学的研究を促進するため、まず紀年を否定し、その年代を弥生時代以降にまで引き下げたいと述べている。そこで宮の念頭にあったのは、当時の考古学的研究が、旧約聖書に書かれたノアの洪水やバベルの塔などの説話が歴史的事実を反映したものであると次々と立証していたことだ。宮は日本の説話についても同様に研究が進むことを期待し、次のように訴えた。

《歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば、いかにみごとな歴史を組み立てても、それは砂上の楼閣にすぎない。私は重ねて歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに、科学的根拠、いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励、心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って、改めて日本古代の神話伝承の研究をさらに推し進めるような計画を、政府も国民も一致して進めて頂きたいと心からこいねがうしだいである》(「紀元節についての私の信念」)

三笠宮の主張は、特定のイデオロギーによるものではけっしてなかった。宮はあくまで学者として科学的研究を重視する立場から紀元節復活に反対したのである。一方で、2月に一日ぐらい祭日があってもいいのではないかという考え方を尊重して、「旧暦の元日」か「立春」を《古い祖先の努力に敬意をはらい、新しい民族的決意を固める日としてはどうか》とも提案している(前掲)。

こうした歴史家としての目を、三笠宮はどうやって培ったのだろうか。意外というべきか、その萌芽には軍人としての体験が深くかかわっていた。

「生身の人間を扱う」戦史に心を惹かれる

三笠宮は1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として青山御所で誕生した。幼称は 澄宮 すみのみや 。その前月には大正天皇の即位式が挙行されている。澄宮が生まれたのは天皇即位の観兵式の終わった晩であった。

戦前の皇族は、皇族身位令(1910年公布)という法規により、特別の理由がある場合をのぞいて陸軍または海軍の武官に任ずるものとされていた。兄宮の秩父宮と高松宮もそれぞれ陸軍と海軍に進んでいる。

だが、母親の貞明皇后は、兄たちと少し歳の離れた三笠宮にはできれば軍人ではなく学問の道に進ませたかったらしい。それは無理でも、せめてできるだけ長く一般的教養を身につけさせたいと思っていたようだ。陸軍軍人になるには、陸軍幼年学校から士官学校予科へという進路があったが、三笠宮は学習院で初等科から中等科まで学んだ。そして1932(昭和7)年、中等科4年修了とともに陸軍士官学校予科に入校している。予科ではほかの生徒と同じく厳しい軍事訓練を受けた。1年生のときには、2年生から敬礼を強いられ、忘れようものなら怒鳴られて鉄拳制裁を加えられたという。

予科を2年で卒業すると、士官学校の本科に進む。在学中の1935年には成年式を行ない、昭和天皇より三笠宮の宮号を賜ると三笠宮家を創立した。本科卒業後、1939年末に陸軍大学校(陸大)に入学するまでのあいだ、千葉県習志野の騎兵第15連隊に勤務している。日中戦争が起こったのはこの間のことだった。

三笠宮は学習院初等科6年のときに、夏休みの自由研究で関ヶ原の戦いをとりあげ、担任の指導のもと180枚ものレポートを提出したことがあった。しかし、歴史に興味を持つようになったのはそれよりも陸大での教育によるところが大きいという。

陸大にはもっとも主要な課目として戦術と戦史があった。このうち、戦術では、地図の上で敵・味方の状態と時々刻々と変わる戦況が示され、それに応じて指揮官はどういう決心や処置をするかなどといった課題が与えられた。三笠宮は、陸大で受けた戦術の教育に後年にいたってもなお恩恵を受けたとしつつも、それ以上に自分の心をとらえたのは戦史であったと、折に触れて語っている。

《戦術は確かに頭を練るにはよろしいのです。けれども、間違えば机上の空論になるわけです。これにたいして戦史の方は生身の人間を取扱うわけです。たとえば宇治川の戦いで平家が鳥の羽音でパニックを起こしたという、そういうことは戦術ではなかなかでてこない》(「学問の思い出―三笠宮殿下を囲んで―」。旧字体は新字体に変えた)

三笠宮が戦史の授業でとくにショックを受けたのは、日露戦争(1904~05年)における日本軍の攻撃力についての話だった。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

you_psy 史学は人文「科学」であるということ。ついつい忘れがちになるんだけど、この記事の内容には、ハッとさせられる。 2年以上前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載の最新回、昨日更新されました。 2年以上前 replyretweetfavorite

suerene1 https://t.co/CKpO3fm8Y9 2年以上前 replyretweetfavorite

taka4th いつもの通り簡にして要を得ていてありがたし。 2年以上前 replyretweetfavorite