「あたし、そろそろ帰ろうかな」
美紀が身を翻した、次の瞬間だった。
バッグの中でスマホが震え、美紀は「ちょっとゴメン」とさも電話がかかってきたような素振りで三代目から離れた。LINEは青木幸一郎からだった。
〈いま東京にいる?〉
その簡素なメッセージはまるで、東京にいないのなら用はない、という感じだ。
幸一郎から連絡が来ると素直に嬉しい反面、美紀の心はなんともいえず翳る。三代目のような既婚者からの不倫の誘いか、青木幸一郎のように都合良く連絡してくる男しか、自分にはいない。普通に男の人とつき合って自然な流れで結婚するなんて、もはや想像すらできない。
宴会場を出て、美紀はLINEに返信した。
〈まだ地元。そろそろ同窓会から帰るとこ〉
同窓会という部分になんらかの反応を示してほしかったが、幸一郎はもちろんそこはスルーだ。
〈明日の夜空いてる? このパーティーに顔出そうかと思って〉
招待状がわりの文面がコピペされた。
〈シャンパンパーティー? どういう人が来るの?〉
と訊いてみたものの、どういう人が来るかは、経験上なんとなく想像はついた。東京にはこういう遊びをしたがる人たちがゴロゴロいる。
〈空いてる?〉
せっつくようにLINEが入る。
〈空いてるよ〉
〈じゃあ七時に。現地集合でOK?〉
〈OK。七時にね〉
本当は、美紀が取った新幹線の切符は明後日のものである。しかし美紀は、予定を切り上げて東京に帰るだろう。青木幸一郎に誘われたというのも理由の一つだが、そうでなくても帰りたくて仕方なかった。十年以上も東京で暮らし、美紀はもうこの街で、なにひとつ満足できない。
*
二十五歳という年齢をきっかけに、美紀は夜の世界から足を洗う決意を固めた。収入だけでみればラウンジはこの上なく割のいい仕事だし、三十近くでも話術や人間味で客を集めるホステスもいるにはいたが、いずれにせよこの世界では容色の衰えとともに失うものが大きすぎる。金銭感覚や生活感覚を元に戻すのに、いまならまだ間に合うと思った。男のとなりで微笑んで時たま会話に加わり、それで普通のOLの倍近い給料を稼げるのは、はっきり言っておいしい。しかし根が生真面目な性分の美紀にすれば、なんだかズルしているような気がして、寝覚めが悪いのである。
ラウンジの常連客にITベンチャーのCEOを名乗る男がいた。話を合わせたりおだてたりするうち、「あたしのことも使ってくださいよ」と調子に乗ると、容姿がいいし機転も利くからとトントン拍子に採用が決まった。会社起ち上げの混乱に乗じて、美紀はなに食わぬ顔でオフィスの一角におさまっている。
美紀はもうすっかり世の中の仕組みを知り尽くした顔をして、いきおい年老いたようになっている。政治家、官僚、テレビ局員、芸能関係者。ありとあらゆる職種の男たちの会話に交ざり、彼らが酒を飲んで現す本性を知ったことで、美紀は昼間の実社会を舐めていた。そしてなにより、幻滅していたのだった。
つき合いの続いているミナホによれば、自分たちの代の就職活動は惨憺たる状況だったという。一方で内部生たちは当然のように内定をもらっていたそうだ。ビッグメゾンや大手広告代理店に、四年間遊び呆けていたような内部生の女子たちがコネで入ったという噂を耳にしても、美紀はもう驚かず、なにも感じなかった。そういうもんだよねーと訳知り顔でうなずくだけである。社会という得体の知れない世界を一ホステスとして又聞きすればするほど、ヒエラルキーの上位は人脈がすべてのクローズドコミュニティで、「誰々を知っている」ということがほとんどすべてと言っても過言ではないと、美紀はもはや悟りの境地だった。彼らの世界はその閉鎖性ゆえ、恐ろしく狭い。地元意識のあるテリトリーはもとより行く店まで決まっていて、外界に出ようという開拓精神には乏しいのだった。
とりわけその習性が強い青木幸一郎は、内部生グループの中でもいちばんの常連となって美紀を指名するようになった。幸一郎の方は憶えていないと言うが、かつて美紀にノートを借りたことがあるというのは彼にとってもお気に入りのエピソードとなって、旧知の間柄というていで甘えてくる。幸一郎は慶應を卒業したあと東大の法科大学院に進み、弁護士を目指して司法試験の勉強に励んでいるところ。一足先に社会人になった友人たちと距離ができていた時期でもあり、昼間ひたすら勉強に打ち込んだあと気晴らしにラウンジにやって来ては、美紀を話し相手に酒を飲んだ。
そのころは幸一郎にとって人生でいちばん過酷な日々だったようだ。周りが給料を手にしているのに、自分だけ学生身分のまま勉強しなければいけない孤独の辛さを慰めてほしいのだろう。ところが受験戦争の経験者である美紀は、
「エスカレーター式で大学まで上がれる方がおかしいんだよ。もっと勉強しろ!」
などと冗談半分にキツいことを言って、あえて茶化すのだった。
幸一郎はそれが面白いらしく、クククッと喜んだ。
「来週一人で勉強合宿するから来てよ」
「なんでよ」
「いいじゃん。軽井沢の別荘にこもって追い込みかけるから」
「じゃああたしが行ったら意味ないじゃない」
「あるある。ごはんとか作ってよ」
「ハァ!? そんなのお母さんに作ってもらいなよ」
「うちの母親、別荘では料理なんかしないよ」
「え? じゃあ誰がするの?」
「お手伝いさん」
「……これだからお坊ちゃんは」
幸一郎はそう言われて悪い気はしないらしく、またクククッと上機嫌に笑うのだった。
軽井沢の別荘へはついて行ったが、美紀はまるっきり料理ができなくて、結局ほとんどの食事を外でとった。
「なんだ、女って誰でも普通に料理できるもんだと思ってた」
幸一郎は別に幻滅したというわけでもなく言うが、美紀の方も悪びれたりしない。
「なに言ってんの。女子だって男子と一緒に勉強して外で働いてんのに、いつ料理習う時間なんてあるわけ?」
やはりこういうふうに打ち返してくるときに幸一郎はもっとも手応えを感じるようで、無邪気な笑顔を見せた。
美紀は幸一郎の手前、蓮っ葉で勝ち気な女のように振る舞ってはいたが、それは幸一郎がそういう女を求めているのだと直感して、半ば演じているところがあった。幸一郎の前での美紀はあくまでラウンジで接客しているときの延長線上の人格だ。彼が自分のことなどなに一つ理解していないことや、理解する気も受け止める気もないことは明らかだ。そういうものを求めた途端、面倒くさい女だと、あっさり切り捨てるだろう。だから自分たちがどういう関係なのか定義することもないまま、セックスもすれば旅行にも行き、ほとんど恋人のような間柄を続けていた。
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