共感を越えて『感情化する社会』とは
—— 本日は新刊『感情化する社会』を入り口に、いろいろとお聞かせいただければと思います。
大塚英志(以下、大塚) はい、よろしくお願いします。
—— この『感情化する社会』というタイトルなんですが、確かに「共感」ばかりがもてはやされる時代だなと膝を打ちました。「感情化」については、序文にこのように書かれています。
〈あらゆる人々の自己表出が「感情」という形で外化することを互いに欲求し合う関係のこと〉
〈理性や合理ではなく、感情の交換が社会を動かす唯一のエンジンとなり、何よりも人は「感情」以外のコミュニケーションを忌避するようになる。感情しか通じない関係性からなる制度〉
改めて、これから読まれる読者に『感情化する社会』とはなにか、わかりやすく説明していただくことできますでしょうか。
大塚 まずですね、その「わかりやすく説明をしてください」という言い方をいまあらゆるメディアが求めていることが問題なんです。
—— し、失礼しました。
大塚 「わかりやすく説明」ということが「論理的に鮮明に噛み砕く」という意味ではなく、「口当たり良く、気持ち良く説明する」ということにすり替わっていますよね。
—— 確かに、気持ちよくないと見向きもされません。ネットでアクセスが可視化されてからは、特にそうだと思います。
大塚 もともとこのエッセイを書く時に前提になったのは、担当編集者の落合さんが出した元少年Aの『絶歌』なんです。
—— 『絶歌』は非難を含め、さまざまな意見がありました。
大塚 彼が行った犯罪に対して、内省がないとか被害者の人権への配慮がないとか、法外な印税を得るなんて言語道断という意見が各所で踊りました。
しかし、そうではなく、あの中にある彼の未熟な「自我」が実は不愉快だということについてこの本では書いたわけです。
—— 「自我」が不愉快ですか?
大塚 そうです。そもそもかつての文学や批評の表現は、人の中にある「自我」、つまり混沌とした得体の知れない、ある種気持ち悪いものを何かの形にして、ごろっと投げ出すものでした。
しかし最近の小説は、読んだら「安心して泣ける・癒される」「ただただおもしろい」というものがわかりやすさであり、読者はそれを自分にフィードバックして「これは何か」と考えなくても良くなってきているわけです。
—— なるほど。本書にも、「共感できない感情」は不快であり、文学がサプリメント化していると書かれていました。
大塚 サプリメント化してしまうと、私の立場とこの人は違うとか、自分の理解を超えてしまったものに触れた時に理解しようと思わなくなってしまいます。
理解できなくて不愉快だから排除する。そんな風にわかりやすさっていうのは、わからないことを排除する言葉として使われている側面が今は少なくともあるんです。
—— それはネットのまとめサイトとかにも言えますよね。しかも、自分が読みたいものしか読まない、出会わない傾向が加速している。
大塚 人は今、ウェブに対してわかりやすいことを求めています。メディアも口当たりのいいもの、気持ちよく飲み込めるものにパッケージして送り出してくる。同時に自分の感情どころか批評すら、快・不快の原則でパッケージ化されたものをポンと投げ出せばいいというコミュニケーションになります。
感情的という意味で感情が激昂するということではなく、人に気持ちよく作用するサプリメントみたいなものとして人は、言葉や表現をやりとりしていく。そんなことが『感情化する社会』のなかに本来こめられていた意味としてあります。
「ATフィールド」に侵入してくるものが文学だった
—— いま社会が感情化しているということですが、それまでは、みんなわかりにくくて気持ちよく共感できないものを、どのように摂取してきたんでしょうか?
大塚 ははは、いや、それこそが本来、本を読むということだったんですよ。うーん……文学を読んだら大抵のものは気持ちよくないんです。いやーなものが残ったり、何か悶々としたり、不愉快なものが残ったり、あるいは心がかき乱されて混乱したりして。
—— 今だと、わけがわからなかったらネットで検索して、共感できそうな意見を読んでスッキリしちゃいますが、それまでは、自分の中にモヤモヤと抱えていたかもしれません。
大塚 そうすると、だんだんとなぜわたしはこんなふうに混乱したんだろう、なぜこんなふうに腹立たしいんだろう、じゃあどこが気に入らないのか。なぜ気に入らないのかを考えていく。そのことをきっかけにして、自分の言葉を作り上げていった中で何人かの人間は、批評家や次の書き手になっていきました。
—— 大塚さんが大学で接する若い学生さんたちはどうですか?
大塚 ぼくがずっと神戸で教えていた時の学生たちなんかは、ラノベやアニメから受け止めた混沌としたものを一生懸命ぼくに説明しようとしていました。だから、別になにからでだって受け止められるとは思いますよ。
でも、ある時期からは「ネットの言葉」がある種の世界の枠組みになってしまいました。
—— 先ほど言われていたネットメディアが「わかりやすい言葉」を使うようになったことですよね。
大塚 ええ。メディアの送り手と受け手の関係が変わってしまった。ユーザーって言葉がまさにそうですよね。つまりそれが受け手の自己定義にもなってきている。
ユーザーの側は自分が受け取りやすいものを要求するので、さっき言ったようなわかりやすさとかみたいなものに、企業もライターもカスタマイズしていく。そういう種類の言葉が、いわば言葉のなかの一定の比率を占めてしまった時には文学はもう機能しない。
—— 確かに、メディアもウェブサービスとして、「サービス」するようになった気がします。ということは、文学が機能しない世界では、他者の「自我」には触れないようになっていくということですかね。
大塚 まあ、人間の感情、「自我」に直接触れたら不愉快ですからね。昔、『エヴァ』(アニメ・新世紀エヴァンゲリオン)でいうところの「ATフィールド」という心の壁を、他者は超えてくるわけですよ。
他人の「自我」が入り込んでくることが恐怖だったから彼らは他者を拒んだんです。その「ATフィールド」に侵入してくるのが、いわばかつての文学だった。
—— 確かにエヴァの主人公のシンジは、他者に心を開くことに怯えていました。
大塚 だから、元少年Aは読者の「ATフィールド」を破って入ってきた。でも、『絶歌』のここが不愉快でダメだってちゃんと言葉にすればいいのに、さっき言ったみたいな違う問題に持っていってしまう。それはまた別の議論をすればいいんです。
「これが文学ではない」という批判を誰かが、正面から正々堂々と完膚なきまでに彼にすればよかったのに、できない。中途半端な文学青年が書いた文章みたいだと嫌味を誰かが書いていたけど、あれはその意味で本質でした。
—— 昔なら半端なものが世に出たら、誰かが正面からちゃんと批判してくれたわけですね。
大塚 そう。例えば、かつてなら死刑囚の永山則夫※みたいな。賛否両論あるだろうけど、たぶん彼は文学と言って差し支えないものを書いて死んでいった。
でも、ああいった未熟な「自我」に対して、犯罪者であろうがなかろうが、それをもう少し高めなところに持っていくような関係性を提供するのが、文学という場だったけれど、それがもうなくなってしまっている。
大きな出版社がラノベみたいなもの手がけないと生き残れないような時代になってしまったのも、その「わかりやすさ」を求める社会を象徴しています。
※永山則夫:1968〜1969年にかけて連続ピストル射殺事件を起こした。逮捕の1969年〜1997年の死刑執行まで獄中で執筆活動を続けた元死刑囚の小説家。1983年に『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞。
システムに阻害されるのか外に出て行くのか
—— 新刊の中では『黒子のバスケ』事件の渡辺被告 ※ に関しても、彼は自らが気持ちいい場所にとどまれなかった。つまり、自分が組み込まれている漫画や二次創作をとりまくシステムが自分を阻害していて、それを壊そうとしたテロリストだったと読み解かれていました。
※渡辺被告:2012年に発生した漫画『黒子のバスケ』の作者や作品の関係先各所を標的とする一連の脅迫事件の犯人。2013年に威力業務妨害容疑で逮捕された。
大塚 昔は人を阻害していたものが、もう少しわかりやすい社会や政治の形をしていました。今はメディアミックスの形やプラットフォームビジネスの総体として、ウェブにある何かだったりコミケ的なものに人が疎外されていると彼が実感したことが、ぼくにとっては興味深かった。
—— 大塚さんは『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』の最終章でも、渡辺被告は「無害なオタク」では充足できず、「システムではなく代替の敵にぶつけるネトウヨ」になるほど愚かでもなく、「自殺志願者」として自死することもできずに、システムの「破壊」を目論むテロリストになったと書かれていました。
大塚 もちろん彼が犯罪者になったことはまったく正しくはない。でも唯一自分を疎外するシステムに異議を申し立てなければならないというところまではいった。
—— メディアに共感を促され二次創作に励むなどの「感情労働」を強いられるのが、現在のコンテンツビジネスのシステムだとありました。つまり彼は、感情労働を拒否し、自身の「感情化」に対して抵抗したわけですね。
大塚 しかし少し遅かった。事件を起こす前に気づけたのなら、彼が考えていたことをネットに書けばよかった。そしたら、もしかしたら星海社の太田(克史)くんとかがきて新書にしてくれたかもしれない。そしたら違う人生があったかもしれない。だけど、あそこまでいかないと人間は、自分の問題を言語化できてないっていうのも事実なんです。
—— たとえば自分の頭で考えようとする若者がいるとして、大塚さんは例えば教え子さんなどには、どう成熟しなさいだとか、希望を持つべきだとかアドバイスをなさるんですか。
大塚 別にアドバイスはしてないです。でも、教え子のうち何人かはこの国を捨てて出て行っちゃったので。
—— 漫画を教えられていた大学の生徒さんですか?
大塚 そうですね。神戸の大学を辞めた時に友達の友達が外国にいて、遊びに来いよって言われて、ふらっといろんなところを回って行ったんです。
—— パリでは風刺雑誌のテロ直後に、反イスラム系デモが街中で起きている時にイスラム系の子供が通う学校でワークショップをされていましたよね。
大塚 うん、そういうのも全部偶然なんだけど、それは運が悪いとかではなく、世界中ではどこにいってもそういうことが普通に起きているだけの話なんです。
おそらく外国の人が日本にやってきた時に国会議事堂前のデモにぶち当たったり、沖縄に行ったら普天間の風景を見ることと同じなんですね。そんな当たり前のことに一緒についてきた子たちは出会ってしまって、彼らはそこで何か作りたいとかなるとトゥールーズや北京がいいって選んでいった。
—— なるほど。本書にも、不快なことの多くは「感情」の外にある「現実」だとありました。
大塚 ええ。だから大戦の影響を未だにこうむる歴史的現実を今も生きる沖縄は「不快」さの対象になるんです。
—— つまり、教え子さんたちは異国の地で「不快な現実」にばったりと遭遇することで、海外になすべきことを見出したわけですね。
大塚 ええ、向こうで何かやっていくことを見出したら、それはそれでいいじゃないかと思います。だから、どうこうしろというアドバイスとかなくて、ふらっと行くからついておいでと言って、それぞれが勝手に途中下車して自分の居場所とかやりたいことを見つけていってますね。
なお、このcakes編集部制作のインタビュー原稿に対して、大塚英志さんの確認の返信は1万字にわたるこのインタビューへの注釈でした。
次回はインタビュー中編「理性的な『シンゴジラ』と感情化する『君の名は。』」、後編「誰だって傍観者でいたいのに巻き込まれるのがリアル」を割愛し、大塚英志さん執筆の「編集者への手紙」を掲載します。(2016年11月21日)
「編集への手紙」掲載後、大塚英志さんよりご要望がありましたため、「編集者への手紙」を非掲載といたします。(2016年11月23日)
聞き手:中島洋一・碇本学 構成:碇本学