中国文化大革命と1970年代

かつての「若者たち」は何に反抗してきたのか? そしてその反抗がどのようなカルチャーに繋がったのかを振り返る本連載。今回はアメリカ・ヨーロッパから大きく舞台を変え、70年代の中国を見ていく。

 フランスで五月騒擾が起こり、日本でも学生運動が激しくなっていった1968年ころ、中国でも激しい反抗運動が起こっていた。
 プロレタリア文化大革命である。
 ただフランスや日本でと違って、中国のこの過激な左翼運動を引っ張っていたのは学生ではなかった。国のトップである。かつての国家主席・毛沢東。彼の煽動によって、プロレタリア文化大革命が動き出していた。
 トップダウンによるプロレタリア革命。
 言葉にしただけでもその無理がわかる。
 毛沢東はプロレタリアではない。絶大なる権力者である。でも、彼はおそらく生涯、プロレタリアの味方になり、極左運動を続けようとしていたのだ。中国を、労働者のための国にしようとしたのは、おそらく真剣で本気だったとおもう。
 だからこそ、大混乱を起こした。

 1966年に始まったこのプロレタリアによる活動は、中国全土に広がり、激しく中国を揺るがす。毛沢東に次ぐこの時期のナンバー2であった林彪が、毛沢東暗殺に失敗し国外逃亡、墜落死するという事件が1972年に起こり、より錯綜し、毛沢東の死(1976年)をもって終わる。

 このプロレタリア文化大革命を、いまでは毛沢東らによる権力闘争だった、と断ずる書物が多い。失脚して、中国政権の中心から遠ざけられた毛沢東が、政権中枢に返り咲くために起こした運動、というわけである。
 たしかにそういう側面は大きくあっただろう。ただ、それだけではなかったとおもわれる。毛沢東の不思議な〝極左路線〟に対するこだわりはおそらく本物であり、それに共鳴した人民による破壊運動が続いたのだ。

 当時、諸外国の知識人はこの文化大革命を、好意的に見る傾向があったとおもう。
 1960年代後半から70年代にかけて、左翼思想が素敵に見えていた時代には、日本でもおそらくフランスでも(少なくとも左翼運動にシンパシーを感じている人たちには)、この文化大革命は賞賛される傾向にあった。
 ひとつは中国に関する情報がほとんど洩れてこなかったからである。
 当時の中国はほぼ鎖国状態にあった。これもどうやら、毛沢東による〝次の世界戦に対する備えるため〟の外交方針だったらしい。中国に滞在しているわずかな記者たちによって、情報が断片的に伝えられるだけだった。情報は細切れであった。中国全土で何が起こっているのか、誰も知らなかった。また、毛沢東一派と、反対派(劉少奇・鄧小平ら一派)がどのような政権闘争を行っているのか、そんな共産党中枢のことはとても把握できなかった。
 中国では、文化大革命という何か大変なことが起きているらしい、という概要は報道されるが、その真相にまではとても踏み込めない。多くの報道は判断を留保していたが、いくつかの好意的な空気が流れていた記憶がある。
 それは、ソビエトとの比較による。
 1917年に成立したソビエト社会主義共和国連邦は、すでに建国50年を迎えようとしていた。フルシチョフ時代(1953〜1964)にスターリン批判がおこなわれ、スターリン時代の暴虐悪政が暴露され、社会主義国としてのソ連には、多くの左翼系知識人が失望していた。左翼系進歩的な知識人にとっては、だからこの時代は中国を見ていた。先端的で、社会主義的なインテリたちは、中国の展開こそが人類にとっての幸せである、という期待を込めて、何が起こっているかはよくわからないが、中国をながめてその可能性に期待を持っていた。(ついでに言えば、北朝鮮にも夢を抱いていた)。
 社会主義国は、その理念を保持し続けることがむずかしく、空洞化していくものではないか、と世界中であやしまれているとき、中国ではプロレタリア文化大革命が進行していたのだ。社会主義に夢を託す者たちにとって(当時はまだかなり大勢いた)、国の形をとっても革命が継続している、つまり革命家がスターリンのような権力者とならず、プロレタリアのため、労働者のため、持たざる者のため、国ぐるみで戦っている中国は素晴らしい、と評価されたのである。もちろんそれは一部の報道であり、ただ毛沢東の独裁が続いているだけだ、という否定的評論もあったが、全体にやや好意的に中国の動きを見ていたような記憶がある。

 日本でも左翼の活動は続いていた。
 一般学生も巻き込んだふつうの学生運動は1969年をピークとして、70年代に入って沈静化していく。そのぶん極左活動は過激化していった。非合法集団となり、潜行していった。かれらだけの集団になり、かれらだけの革命を求め進んでいた。
 かつて学生運動に参加した学生はふつうの学生生活に戻り、大学教授はいつもと同じ退屈な講義を続け、会社員はモーレツ社員として働いた。それとまったく関係のないところで、過激派は活動していた。
 しかし中国はそうではなかった。
 毛沢東が国民を巻き込んでプロレタリア革命をめざしたため、ほとんどの国民が無関係ではいられなくなった。日本の政治を赤軍派が主導したようなものである。
 もとより毛沢東は、1950年代後半に「15年でイギリスに追いつく」という大躍進政策を掲げたが大失敗、数千万人と言われる餓死者を出した。国ひとつぶんほどの人が餓死したわけである。
 これによって毛沢東は失脚、経済を建て直すために劉少奇&鄧小平ラインが政治を主導することになった。のちの鄧小平の中国を見ればわかるように、経済優先路線である。毛沢東が真剣にめざす社会主義国家とは違う。理念によってヨーロッパ小国の一国分の人民が餓死するのであれば、ここは理念には譲ってもらって、やや資本主義に近くなるかもしれないが、農業工業産業の生産性をあげ、経済を立て直したほうがいいだろう、という現実的な路線である。けっきょく、あと30年をかけて中国はその路線を歩むのであるが、これに対して毛沢東は怒った。(どこにも怒ったとは書かれてないが、その行動を見る限り、かれは激怒していたとおもう)。反アメリカ、反ソビエトが毛沢東思念の基本にある。どちらのスタイルも真似てはならない。なのに劉・鄧たちのざまは何だ。
 権力闘争を仕掛ける。
 その戦略のひとつがプロレタリア文化大革命である。紅衛兵という学生集団を煽動し、また国民の不満をすくいあげ、全国的な暴動を巻き起こした。
 毛沢東にとっては理念の問題だったであろう。
 資本主義的要素の入った政策や、それを支持する団体は、彼にとっては完全なる敵であり、打倒しなければいけない存在である。打倒するためには、かれが政権を握らないといけない。
 毛沢東が権謀術数をめぐらし政権を握ることと、中華人民共和国を救うことは、同意義であった。毛沢東が権力を握れば、中国の社会主義は守られるのである。かつての清や中華民国を食いものにした資本主義的動きを封殺するためにも、人民は立ち上がり、毛沢東は政権を握らなければいけない。
 毛沢東は、政権中枢に戻りたいという自分の欲のためにだけ動いたのではなく、至高の理念のために動いたのである。
 だからこそ、たちが悪い。
 自分の欲で動けば、そんなに多くに人を殺さない。殺せない。
 ところが理念のためなら、何千万人を犠牲にしても平気である。その犠牲の先に、至高の世界が待っているのだから、膨大な犠牲もいとわない。世界史上のホロコーストは、だいたいとても崇高な理念(ただし独善的な理念)のもとにおこなわれている。

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1970年代の見張り塔からずっと

堀井憲一郎

高度経済成長が終わりを迎えた1970年代、若者文化もまた曲がり角に差し掛かろうとしていた。いまのカルチャーはどこまで行ってもこの曲がり角の先にある。日本人はこの曲がり角をいかにして迎え、そして無事に曲がることができたのか? 現代日本を...もっと読む

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コメント

Tanishi_tw かなり雑な印象でどこまで信用していいのか迷うけど、面白い連載だな。 3年弱前 replyretweetfavorite

yanabo 堀井憲一郎 @horiikenichiro さんのすばらしい連載。 毛沢東は、至高の理念のために動いたのである。だからこそ、たちが悪い。理念のためなら、何千万人を犠牲にしても平気であるhttps://t.co/xiOoTHAYiR 3年弱前 replyretweetfavorite

Singulith >「毛沢東は、1950年代後半に「15年でイギリスに追いつく」という大躍進政策を掲げたが大失敗、数千万人と言われる餓死者を出した。国ひとつぶんほどの人が餓死したわけである」  https://t.co/8fJ6njjXWd 3年弱前 replyretweetfavorite

kiq “学生運動の各セクトでも似たような権力闘争が続いていた。新しいものを作ろうとして、まったく意味不明で。”この後それなら自民党統治の方がマシだと続くけど今ではさすがにどうかなと 3年弱前 replyretweetfavorite