大学の授業料も月々の生活費も全部自分で払ってやろうと、最初のうち美紀は息巻いていた。だってそうすれば親に恩着せがましくされることなく、罪悪感もなく、自由でいられるのだ。授業をサボったときも、買い物ひとつするにも、男の客と親しく会話するにも、彼氏とセックスするときも、親の庇護下にいるうちはどうしたって後ろめたさを感じずにいられない。親とどれだけ遠く離れた場所にいようと、お金を出してもらっているということによって親からは離れられなかった。とりわけ苦労して捻出したお金だとさんざん聞かされているものだから、なにをするにも父の頑迷な顔つきや、白髪が目立つようになった母のやつれ顔が脳裏にちらつくのだ。
ミナホがもっと実入りのいい店に移るというのでついて行き、六本木のキャバクラで働きはじめるが、そうなるとますます大学からは足が遠のいて、なんのために働いているのかわからなくなる。決定打となったのは、二年からキャンパスが変わったことだ。新丸子のアパートから三田キャンパスに通う定期代を考えるだけで頭が痛い。これを機に三田の近くへ引っ越す人も多いらしいが、より家賃の高い都内に引っ越すなんていまの美紀には不可能だった。
そして二年に進級してからというもの、美紀は夜の仕事中心の生活を送り、三田キャンパスにはほとんど足を踏み入れないまま世間はゴールデンウィークになり、季節が変わっていった。授業料がどうなっているのか、果たして自分はまだ慶應生なのか。もう除籍になってしまっているのか。財布の中に入ったままの学生証を見るたび、美紀の胸はチクリと痛む。彼氏との連絡もいつの間にか途絶えている。
一度夜の仕事に慣れてしまうと、そこから降りるのはとても難しかった。六本木の店で知り合った女の子に、もっといい条件の店があるよと紹介されるまま、美紀はさらに麻布のクラブ、そして銀座の会員制クラブへと、短期間のうちに流転を繰り返した。
店のランクが上がれば収入も上がり、新丸子のアパートから一生出られないと思っていたが、気がつけば麻布十番のワンルームマンションに引っ越し、移動はタクシーばかりの生活だ。ヒールも履きなれて立ち居振る舞いに科が染み付き、いい女気取りもすっかり板についている。
銀座の会員制クラブは、ママの趣味で塗り固められた小さな店だった。七十近いママの審美眼で選ばれた家具調度は昭和の色濃く、生え抜きの老齢バーテンダー、そして若い女の子が常時二、三人で回していた。
「うちに来るのはバカな小娘と話して喜ぶような客じゃないんだよ」
というママの教育方針にならって、朝刊に目を通し、話題の本は片っ端から読んで、映画館や美術館や舞台へも足を運んだ。勉強熱心なうえに機敏で気が利く美紀はママから好かれたし、どんなお偉いさんとも対等に会話することができるママの知性は、美紀の向上心と向学心を大いに刺激した。
慶應大学除籍の学歴は、社長クラスのお客には特にウケが良かった。
「そのくらいの学費、俺がいくらでも用意してやったのに」ダーッハッハッハ……
ダミ声を轟かせて豪語されると、笑顔の裏では古傷が疼くように日吉キャンパスの景色が蘇った。
美紀についていたお客がストーカー化し、自宅にまで押しかけるようになったことで泣く泣くその店を辞め、また六本木に戻って、今度は高級路線のラウンジで働きはじめた。服装は自由でノルマもないが、月五十万は手堅く稼げる。美紀はその店の気楽さが性に合うと思った。背中の開いたドレスでもなく着物でもなく、モード系の私服で店に出られたし、お客もそこそこ若くてリッチだ。銀座のクラブに来る中高年の客は、ホステスにまめまめしいコミュニケーションを求めてきたが、ラウンジに連れ立ってやって来る若い男性客にとっては、メインはあくまで仕事仲間や友人との会話の方だった。テーブルについたホステスは、まるで空気を循環させるためだけに置かれたサーキュレーターのようなもので、拍子抜けするくらい彼らは手がかからない。飲み会に招集された女の子のような感じで、とりあえず微笑みをキープし、ときたまお酒のおかわりを勧めてみるくらいで、労働しているのだという感覚すら薄い、死ぬほどゆるい店だった。
あるとき、五人ばかりのグループでやって来た若い客のテーブルにつき、それが慶應大学のOBであることに気づいた美紀は、
「あたしも慶應行ってたんですよ、一年でやめちゃったけど」
営業トークのつもりで、なんの気なしに会話に交ざってみた。
「は? それマジ?」
リーダー格の男の口から反射的に出た「マジ?」には、こんな所で働いてるお前なんかが俺たちと同じ学閥なはずねーだろ、という排他の色が滲んでいる。美紀は負けじと続けた。
「ほんとですって。新丸子に住んで、日吉キャンパス通ってましたよ」
「ふーん」
案の定にべもなくあしらわれた。俺たちの世界を邪魔しないでくれる? と言わんばかりに、彼らはテーブルにつくホステスを黙殺する。そのくせ、ただ酒を飲むのに、きれいな女のいる高い店に来たがるのだ。
改めてグループの顔を見回し、美紀ははっとなった。この人たち、同期だ。日吉キャンパスの中庭の、あの目立つベンチでいつもだべっていた、内部生たちじゃないか。
さらには唯一名前を憶えている人がそこにいるのに気づき、美紀は驚いて言った。
「あれ? あたしお客さんに、心理学のノート貸したことあるかも」
「え?」
グラスに口をつけようとしていた男が顔を上げ、
「おれ?」
自らを指さしながら言って、美紀と目を合わせた。
青木幸一郎だった。
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