共同幻想論』が内包するエロスを私たちは自覚できるのか

吉本隆明『共同幻想論』評、最終回です。国家という幻想を紐解いた本書。発表されてから約半世紀、吉本隆明が亡くなって4年以上が経ちました。吉本隆明がその生涯の中で解決しなかった思想的課題とはなにか? そして『共同幻想論』という魅惑と、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか?


改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

吉本隆明が解決しなかった現代の思想的課題

 私は吉本隆明の生涯の思想の帰結は未完であっただろうと思うし、さらに大きな修正を経る必要があっただろうと思う。そもそも国家幻想の解体は、今でも世界の思想的課題なのだろうか。

 『共同幻想論』に示された人類意識の史的展開の考えの終点をあえて単純に図式化すれば、高度な国家幻想をもった国家ほど、市民の個人幻想は共同幻想に対立しているはずである。しかし、中国と米国という国家をその共同幻想のあり方と政治制度の点で比べてみたとき、より高度な国家幻想を持っている米国のほうが、国家の法という共同幻想を介して、市民に対し自由や権利を保証している。中国はその逆だ。アジア的な帝国となって人々の自由と権利を抑圧している。こうした現実から見るなら、国家と市民のあり方は、国家の解体を主眼におくより、市民権を中心にすえて国家を適正な姿に改造していくほうが、個人の解放にもなる。個人幻想や対幻想の解放にも近づくだろう。

 他方、市民社会の理想に近づく国家という存在はただ肯定されるものでもない。欧州国家での移民排斥や日本の実質的な移民排斥のように、国家の幻想は、その幻想を共有しない人々を制度的に幻想の外部に押し出す暴力を作り出す。

刺激的な言い方になってしまうが、吉本隆明が終生固辞しようとした日本の平和憲法9条ですら、それ自体は彼のいうように人類の最終への道標であっても、現状では平和の名目で日本国家を特別視した共同幻想構築の道具となり、そこでイデオロギー的な排斥を生み出しうる。あたかも平和憲法9条さえ守れば世界が平和になるというような呪術性まで帯びて、日本の国家をその共同幻想の内に閉ざす。平和憲法は、戦争を日本という固有個別国家の共同幻想の外部に転移させる道具となり、本来の憲法の平和理念の志向から転倒する。憲法を読み直せばわかるが、本来なら日本国の平和は世界の平和を前提にしているのである。

 こうした現代世界の問題意識は、吉本隆明の『共同幻想論』でどのように解かれるのだろうか。あくまで抽象度の高い共同幻想のための議論であれば、それは現在の逆説的な状況とどのように結びつくだろうか。そこは残念ながら未決の問題としてただ残されている。

 もう一点、未決の課題として浮かび上がってくることは、貨幣幻想の問題である。貨幣は共同幻想の一種と言ってよいが、吉本隆明の『共同幻想論』のなかに位置づけることができない。おそらくその理由は、マルクス主義者である吉本隆明にとって貨幣はマルクスの思想によって十分語り尽くされたという前提があったのだろう。いわく、労働が商品に疎外され、それが物象化して貨幣のフェティシズムに集約されたといった議論で十分だったのだろう。

 だが、貨幣の価値を保証する「信用」は国家的な共同幻想によって維持されているものであり、貨幣もまた共同幻想そのものである。では、貨幣の幻想は共同幻想の生成プロセスのどのような地点で発生したのだろうか。その答えは『共同幻想論』の中にはない。ただ連想されることはある。貨幣の古代的な存在のあり方は、商品交換の機能性とは別の次元で、神社のお賽銭のように呪術性をもっていたことだ。古代の文明の多くで貨幣は穢れに対するはらい(または支払い)として宗教的に利用されてきた。こうした課題はより実証的な人類経済学的な知見で『共同幻想論』を補う必要があるだろうが、そこも理論的な見通しは立っていない。

『共同幻想論』という魅惑の逆説
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