「え、それって、大学辞めろってこと?」
噓でしょう? というニュアンスで美紀は言った。天下の慶應だよ? 死ぬ思いで勉強して、奇跡的に合格できたんだよ?
ところが父は慶應の難易度や社会的なランクを、まるっきり理解していないようだった。理解していないというより評価していない、眼中にない。これは価値観の違いである。父にとっては慶應だろうが早稲田だろうが、東京の大学なんてしゃらくさいの一言なのだ。
「そんな、すぐにどうこうってことはないと思うけど……」
おろおろしながら曖昧な表現でとりなす母だったが、家計が芳しくないのは明らかで、弟の大輔が「俺、高校やめて働いてもいいよ」などと言い出す始末。
「美紀ちゃん、仕送りだけど、少し減らしても平気かしら?」
母が父をなだめるためにか、それとも本気でお金に困ってか、申し訳なさそうにそんな提案をし、美紀は静かにうなずいた。
東京へ戻るなりありとあらゆるアルバイト情報誌をめくり、ケータイでiモードの求人サイトを片っ端から覗く。美紀は結局、大学の掲示板に張り出してあった中でいちばん時給の高い塾講師のバイトに飛びつき、小学生に算数を教えることになった。シフトに自由が利くカラオケボックスのバイトも掛け持ちし、塾が終わってからはしごする日々。安い自転車を手に入れて、交通費は当然のように懐へ入れる。それだけやっても東京はいるだけでお金がかかりすぎ、月末は深刻な金欠に陥った。
生意気な都会の小学生に手を焼く一方、バイト仲間に同世代の多いカラオケボックスは楽しかった。いまだに気の合う友達を見つけられないでいる大学とは違って、共に仕事をこなすバイト仲間とのつき合いは自然と濃くなっていく。人間関係の輪の中にするりと入り込めれば、仕事というよりお金をもらえるサークル活動のような感じで時間は過ぎていった。
あるときバイトの先輩に家庭の事情を話すといたく同情してくれて、自由が丘のバーで働いてみないかと紹介してくれることになった。
「ここよりは稼げるはずだよ。お酒出す仕事だけど、カラオケボックスでも酒は出すもんね」
美紀は自由が丘という地名に胸を弾ませながら面接に行き、まだ十八歳ながら身長があるのと老け顔が功を奏して、すんなり合格した。時給は千五百円。パリッとした白いシャツを着てカウンターの中に立つと、馴染みの常連客からは「磨けば光るのに」と口々に言われ、そのたび美紀はぎこちなく笑った。
ある日、授業を休みがちになった大学で、知らない女の子から声をかけられる。美紀が稼げる仕事を探していると人づてに聞いたと言い、すぐに紹介できる店があると持ちかけられた。
「夜なんだけど、いい?」
「夜って、あたしキャバクラとかはちょっと……」
美紀は引きつった笑いで断ろうとする。バーで働きはじめてみたものの、夜の世界には深入りしたくないと思っていた。東京にはあまりにも性的メッセージが氾濫している。田舎町では覆い隠されていた欲望が、ここではぎょっとするほどおおっぴらにされているのだ。電車に乗れば週刊誌の中吊り広告に堂々とセクシャルな見出しが躍り、アパートの郵便受けには「デリヘル嬢募集! 日給三万円~」などと書かれた風俗チラシがしょっちゅう投函された。そんなチラシは条件反射のようにくしゃくしゃにして捨ててしまうが、女が風俗業界に身を落とさずに生きていくのはそれなりに強い意志がいるのだなぁとしみじみ思ったりした。男の性欲は社会全体で容認されており、若い女よ、お金のためにさあ体を売れという誘惑は、街中にばら撒かれている。そのメッセージを鵜吞みにすれば、抵抗感や嫌悪感はあっさり崩れていくのだろう。
実際、目の前にいる同い年の彼女もケロッとした調子で、
「そこは女子大生しか雇わないんだけど、慶應生って少ないから、たぶん合格だと思う」
まるっきり後ろ暗さを感じさせないもの言いで美紀を勧誘した。夜の店で働いていることに、一点の引け目もないらしい。
なんだ、そういうものなのかと美紀は思う。夜の仕事をことさらネガティブにとらえ、堕落と騒ぎ立てるのは、田舎っぽい保守的な差別心が自分に染み付いているせいなのかもしれない。
「そんなにキツくないし、けっこう儲かるよ」
彼女はあっけらかんと説いた。
その異様なまでのカジュアルさを、美紀はカッコいいと思う。大人びていると感じる。自分もまた颯爽と夜の世界に飛び込まなくてはと焦る気持ちすら芽生え、表情ひとつ変えずにこう返した。
「時給ってどのくらい?」
「あたしは二千円だけど」
「そんなにもらえるの!?」
「あ、でも、その額もらってる子って、けっこう少ないんだよね」
「……それって、人によって時給が違うってこと?」
「そう」
「なにで変わるの? 時間帯?」
彼女はくすっと笑い、勿体つけるように言った。
「まあ、いちばんはルックスかな」
彼女の目に、美紀の外見を査定するような色が浮かぶ。美紀は久しぶりにはっきりと、自分が傷つけられたのを感じる。だけど精一杯おどけて、こう言ってみせた。
「あたしは二千円なんて逆立ちしても無理だなー」
彼女は首をのけぞらせて吹き出しながら、先輩ぶった調子でこう上から言った。
「大丈夫だって! うちの店で働きはじめた女の子、みんなどんどん可愛くなってくから」
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