あのこは貴族

女なんだから料理くらいしろ」

【第21回】
32歳の美紀はお正月の実家で、大学時代のことを思い出していた。
地方から上京して慶応義塾大学に入学し、初めて東京生まれの同級生たちと出会って、カルチャーショックを受けた。ちょうど同じころ実家が経済的に困窮し、仕送り額を減らされることが決まって――。
気鋭の作家・山内マリコがアラサー女子の葛藤と解放を描く、渾身の長編小説。

 廃れた街のテンションは低いが、実家のテンションはもっと低い。正月休みに入っている父親はパチンコへ行ったらしく不在。母はおせち作りにかかりきりで、台所で振り向きざま「おかえり」と言ったきり、豆の煮え具合に集中している。祖母は夕飯まで自分の部屋でテレビを見ている。美紀は荷物を自分の部屋に運ぶと、脱いだコートを鴨居に吊るして、ベッドに倒れ込んだ。

 これでも一応、家族に元気な顔を見せようと思って帰って来ているのだが、毎度のことながら、別に帰って来なくてもよかったんじゃないかと思うほど、歓迎を受けない。美紀も帰省には飽き飽きしているが、家族の方だって同じなのかもしれない。そんなことより早く結婚して孫を……ということか。だったら最初からそう言ってくれていたらと、美紀は思う。あなたには結婚して、早く孫を産んでもらいたい。それが家族にとっての幸せなのよと、言ってくれればよかったのに。


 子供のころから成績だけは抜群に良かった。小学校の通信簿でオールAを叩き出したときは、神童かと噂が立ったほど。こんなに出来がいい子は時岡家はじまって以来、トンビが鷹を産んだ、誰に似たのかと褒めそやされた。褒められれば調子に乗って、ますますがんばった。この街にいたころ、美紀はひたすら勉強に打ち込んだ。

 時岡家は代々漁業に携わってきた家系である。七十歳になった祖父が引退するのを機に父も廃業を決め、美紀が中学に上がるころからは、電機メーカーの下請け工場で働くようになった。漁獲量がめっきり減って網元の赤字が続くようになると、漁師だった家がみるみるサラリーマンに鞍替えしていたこともあり、時流に乗ったかたちである。魚の加工会社のパート勤めだった母まで、いつの間にかそこを辞めて、郊外にできたホームセンターでレジを打つようになっていた。

 そういった変化を美紀は最初、わが家が突然近代化したようで、どこか誇らしく感じていた。それまでは早朝に漁に出て、その分早くに寝ていた父が、自分と同じタイムスケジュールで生活しているだけで新鮮だった。しかし単調な仕事のせいで父からは覇気がなくなっていったし、家族同然のつき合いだった隣近所との縁も自然と薄れ、季節ごとの行事も端折るようになり、土地に根ざした暮らしではなくなっていく。そのうち祖父の体の具合も思わしくなくなり、美紀が高校生になったころから入退院をくり返すようになった。人も減り、街全体にどことなく不穏な気配が立ち込めていたが、家と学校の往復で参考書にばかり目を落としている美紀には、なにも見えていなかった。

 だから実家の自分の部屋にいても、受験勉強に励んでいたこと以外の思い出があまりない。なんであんなに必死になれたのか、もはや理解不能だ。

 早稲田の推薦枠から外れた美紀は、高校三年の年末年始を、殺気立った気持ちで迎えた。一般入試に賭けることを決意し、東京の六大学すべてに願書を出して、鬼気迫る形相で最後の追い込みをかけた。地元の大学はひとつも受けなかった。

 東大は記念受験のつもりで、本命は慶應と早稲田、あとは滑り止めとして、受けられるだけ受けた。東大にはあっさり落ちたが慶應に合格、それを伝えてくれた担任の先生と、職員室で抱き合って喜んだ。思えばあの瞬間が、人生のハイライトだった気がする。

 美紀はたんすから部屋着を出して着替え、コンタクトを外してメガネをかけた。部屋着は十年近く前に買ったユニクロ。座敷へ行くと、ちょうどみんなが食卓についたところだった。

 魚の煮付け、里芋とイカの煮物、白菜の漬物、もやしとキュウリの和え物、タコと赤貝の刺し身、肉じゃがの小鉢。大きな食卓いっぱいにこまごまと皿が並ぶ。母はこれを一人で用意した上に、お節まで作っていたのか。美紀はその労働量を思ってくらくらした。お茶碗を運ぼうと腰を上げるも、
「いいから。疲れてるんでしょ」
 と母は言って、手伝わせてくれない。

 疲れてはいなかった。美紀は仕事納めの翌日には箱根の温泉に行って、思いきり体を休めていた。一泊二万円の温泉宿に女友達と泊まり、コース料理を食べ、予約しておいたオイルマッサージの九十分コースを受けてぐっすり眠り、翌日も美味しい朝食をたっぷり時間をかけて食べた。一年分の疲れは、それでチャラになった。

 テレビのリモコンでピッピッとチャンネルを替える父の無表情が、空気をずっしり重くする。祖父は五年前に他界している。祖母は健在だが、この十年で一回りほど縮んで、昔のような元気はない。大輔は美紀を送り届けてすぐ、友達と飲みに出かけて行った。

 伏せられていたグラスにビールを注いで夕食がはじまっても、テレビの音だけ異様に大きくて、会話らしい会話はなかった。なにか一言でも余計なことを言ったら、結婚や孫の話になってしまいそうで、美紀は口をつぐんでいる。

 そもそも家族との—とくに父親との会話は極端に少なかった。家にいる父は漁の疲れを癒すように居間で寝そべっているかパチンコに行っているかで、遊んでもらった記憶もない。手は出さないものの、酒を飲むと荒っぽい気性が顔を覗かせ、理不尽なことで怒鳴る癖があった。酒を飲んでいないときは一言も言葉を発しないのは、昔もいまも変わらない。

 父は美紀が東京の大学に進学することを、快くは思っていなかった。勉強にはお金がかかる。通学の定期ひとつとっても、父はお金を出し渋った。「女が勉強しても仕方ないだろ」と吐き捨てるのを何度となく聞いた。

 勉強は、美紀のたったひとつの特技だったが、父には歓迎してもらえなかった。塾の費用を出してくれたのは母だった。

「この里芋美味しい」と美紀。

「近所の人にもらったの。立派な里芋よ。ちょっと持ってく?」

 母は腰を浮かせ、台所から里芋を取ってこようと立ち上がる。

「いらない。料理しないから」

 美紀が止めるのも聞かず、新聞紙にくるまれたこぶし大の里芋を持ってきた。

「でか!」
 美紀が笑うと、
「でしょう。こんな大きな里芋、お母さんもはじめて見たわ」
 母もほがらかな調子で笑顔を見せるが、
「女なんだから料理くらいしろ」
 さっそく父に水を差されて、会話はすげなく終わってしまった。

 父を前にすると、美紀はなにも言えなくなった。

 いつごろからか悟ったのだ。

 父みたいな人には、なにを言っても無駄なのだ。美紀はもう十代の不機嫌な娘のように、考え方の違いを主張したり、食って掛かることなどしない。

 父のような人を、変えることは不可能だろう。

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あのこは貴族

山内マリコ

東京生まれの華子は、箱入り娘として何不自由なく育ったが、20代後半で彼氏に振られ、初めて人生の岐路に立たされた。焦ってお見合いを重ねた末に、イケメン弁護士「青木幸一郎」と出会う。 一方、東京で働く美紀は地方生まれ。大学時代に...もっと読む

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maibou8 cakes山内マリコさんの連載「あのこは貴族」 21話目よりりんごの絵を使っていただいています。 https://t.co/mgkaX37FcV https://t.co/4BtCr020Os 約4年前 replyretweetfavorite

maibou8 cakes山内まりこさんの連載「あのこは貴族」 21話目よりりんごの絵を使っていただいています。 https://t.co/mgkaX37FcV https://t.co/2KKFLbxzQ9 約4年前 replyretweetfavorite

moe_sugano 父といろんな確執があったのは否定しないけど、こういう父親じゃなくてよかったとは思う。> 約4年前 replyretweetfavorite

T0g0 こういう家ではないし、わたしはここまでの生き方じゃないけど、すごい理解できる… 約4年前 replyretweetfavorite