頭の中のナレーターは物まね上手
ルースに教わるまで、僕は頭の中の声のことを知らなかった。その声を黙らせておくように言われるまで、それがどんなにうるさいか気づかずにいた。からだをリラックスさせる訓練は大変だった。いつもテレビが鳴っていて、深く呼吸しようものなら、よどんだたばこの煙を吸い込んでしまいそうな狭い部屋ではとくに難しかった。からだをリラックスさせるだけでも難しいのに、頭の中の声を黙らせるなんて不可能に思えた。
ルースの店にはもう10日間も通っていて、いろいろな意味で自分の家よりも居心地がよくなっていた。忙しくないときは、ルースの息子のニールも僕たちに交じって、話を聞かせてくれたり、新しいマジックの技や、つくりかけの最新のトランプを見せてくれたりした。なんだか家族みたいだった。マジックショップの家族といるとき、僕は誰の世話もしなくてよかったし、1日に2時間は誰にも邪魔されず僕だけに注意を向けてくれる人ができた。
ルースは僕に時間をくれた。関心を注いでくれた。そして、僕がいまだに使い続けているマジックを教えてくれた。こんなことをするのは時間の無駄だと思ったことがないわけじゃないし、ルースの頭がおかしいんじゃないかと本気で考えたこともある。
いまでは、神経可塑性は脳が本来備えた機能の一部だということが科学的に認められている。脳を鍛えれば集中力や注意力が増し、頭の中の声に邪魔されずに、明快で賢い判断ができるのだ。いまでこそ、そうした脳の仕組みはしだいに解明されてきているものの、ルースの教えを受けていたあの頃は、そんなことは話題になっていなかった。
頭の中の声を遮断する方法を教えてあげると言われて、僕にはなんのことだかさっぱりわからなかったけれど、ともかく従うことにした。
「肩をリラックスさせて。首も。顎も。顔の筋肉が緩むのを感じて」とルースは言った。
ルースがいつものようにリラックスした状態に導いてくれると、そのやわらかい声で僕のからだは軽くなり、椅子から浮いて、ニールが見せてくれた手品のカードのみたいに宙を飛びそうだった。
「じゃあ、頭を空っぽにしてみて」
これは新しいやつだ。どうやったら頭が空になるんだ? いろいろな考えが浮かんできた。目を開けるとルースが僕にほほ笑んでいた。
「おうちでリラックスのトリックを練習するときは、どうしてる?」
一瞬考えた。
「ここでやるのと同じようにやってる」
「おうちでは誰が教えてくれる?」
「ルースが、僕の頭の中で」
「でも、頭の中にいるのはわたしじゃないわよね。誰が話してる?」
僕が知るかぎり、頭の中で僕に全身の筋肉をリラックスさせるように教えてくれているのは、ルースの声だった。
「ルースの声だよ」
「でも本当はわたしじゃないの。誰かしら?」
「僕?」
「そう、あなたよ。あなたが頭の中で自分に話しかけてるの。わたしの声に聞こえるのは、あなたがそう望んでるからよ。頭の中のナレーターは物まねがすごく上手なの。誰の物まねでもできるのよ」
「わかった」
「人はみんな、頭の中でずっとこの声がノンストップでしゃべり続けているの。朝起きた瞬間から夜寝るまでずっとね。考えてもみて。ラジオのDJが次に何をかけるかをしゃべり続けてるみたいなものよ。一日中絶え間なく曲紹介をしてるわけ」
そのことを考えてみた。僕が聴くのはボスラジオ、トップ40 ヒット、ロサンゼルスのKHJAMの930だ。
「頭の中のDJが何かにつけて一日中ひっきりなしにしゃべり続けてると想像してみて。
心のラジオにあまりにも慣れすぎて、それがずっと大音量で流れっぱなしになってることにさえ気がつかないの」
これまで気づかなかった。僕はいつもいろいろ考えていたけれど、考えることについて真剣に考えたことはなかった。
「その頭の中の声は、あなたの人生の一瞬一瞬を、いいとか悪いとか決めつけてるの。その声の言うことに、心は反応する。まるであなたのことを本当に知ってるみたいにね」
ルースはそこのところを力を込めて言った。僕の頭はこんがらがった。
「問題は、その反応があなたにとっていいものじゃない場合が多いってこと」
「でも、僕の頭の中に僕がいるんでしょ? 僕のことを知ってるはずじゃない?」
「いいえ。頭の中の声はあなたじゃない。本物のあなたは、そのDJの声を聞いている方の人なの」
僕の中に何人もの人がいるとルースは思ってるらしい。ルースは頭の中でいろいろな声を聞くかもしれないけど、僕の頭の中には僕しかいないし、DJがお天気を教えてくれたり、次の曲を紹介してくれたりはしない。
「頭の中の声を信じちゃだめ。ずっとあなたに話しかけてる声のことよ。間違ってることの方が多いから。今回練習するのは、その音量を下げて、最後にスイッチを切るトリックよ。これを覚えたら、わたしの言ってることがわかるようになるわ」
「やってみるよ」と僕はルースに言った。
「いまDJはなんて言ってる? いまこの瞬間に、あなたの頭の中でなんて言ってるかしら?」
「ちんぷんかんぷんで、うまくいかないって言ってる」
こんな練習、まるでバカバカしいとDJは言っていたけれど、ルースには伝えなかった。
「その調子。ほら、いま考えていたことについて考えられたでしょ。これがトリックの最初の部分よ」
わかったふりをしてうなずいた。
「考えることについて考える練習をしましょう。じゃあ、目を閉じて、またからだを少しリラックスさせましょうね」
僕は目を閉じてリラクゼーションの順番に従った。つま先から始めてだんだん頭の方にのぼっていく。順番に意識を向けながら、すべての筋肉をリラックスさせる。
「呼吸に集中して」ルースが言った。
鼻から息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。もう一度。何度か呼吸したあと、顔にかゆみを感じて手を上げて掻いていたら、何かが指にあたった。ニキビじゃないといいな。アパートの上の階に越してきたばかりの女の子を好きになった。つきあってくれるかな? 急に上唇から突き出たみっともない前歯のことを思い出した。やっぱり無理だ。僕なんて相手にしてくれるはずがない。
「呼吸に集中して。DJが話しはじめたら、無視して呼吸に意識を戻すのよ」
自分が別のことを考えていたことに気づきもしなかった。呼吸に意識を戻したけど、今度は同じクラスの男の子と遊ぶことを考えはじめた。その子は「いい」場所に住んでいた。父親は建設会社のオーナーで、デカい家に住んでて、親はデカいキャデラックに乗っていた。去年一度夕食に呼んでもらったとき、ごはんをご馳走になって、その子の母親に家はどこ? お父さまはどんなお仕事をしているの? と聞かれた。僕はテーブルの下にもぐり込んで消えたくなった。
呼吸以外のことを考えてた。難しいな。こんなのできる人がいるのかな? だいたい、こんなことになんの意味があるんだろう? あとからあとからいろんな考えが湧いてきた。
ろうそくの炎に助けられて
「目を開けて」
ルースを見た。大失敗だ。
「すごく難しい。ぜったい無理」
「ジム、できないことなんてないわ」
「これは無理」
「練習が必要なだけよ。1秒だけ何も考えないようにしてみて。次に、何秒間か。それから
もう少し長く」
「僕、ほんとにこれ苦手なんだ」
ルースは僕を見つめて少し黙り込んだ。
「みんな最初はそう言うの。やろうと思えばなんでも身に付くわ。これだってそう。まだ知らないだけよ」
とつぜん、自分がダメだと思ったり、みんなと違うと感じたり、手が届かないと思ったりしたときの痛みを感じた。すると目がちくちくしてきた。ルースといると、ときどきそうした想いがこみ上げてきて、顔を伏せて泣きたくなった。
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