脳の回路をつなぎ変える最初の一歩
脳は経験と反復と意思によってかたちづくられる。この数十年のものすごい技術進歩のおかげで、細胞レベルでも、遺伝子レベルでも、さらに分子レベルでも脳に変わる力があることがわかってきた。
人間の脳がやわらかいこと、専門用語で言うと「神経可塑性」について僕が初めて知ったのは、あのマジックショップでのことだ。ルースがそれを教えてくれた。
12歳の僕は神経可塑性なんて言葉は知らなかったけれど、あの6週間でルースは僕の脳の回路を文字どおりつなぎ変えてくれた。
僕は毎日マジックショップに通うことを誰にも打ち明けなかったし、僕がどこに行くかなんて聞いてくれる人もいなかった。母さんは鬱病を患っていた。具合が少しよくなって起き上がれるときには食事をつくってくれたりもした。それも食べ物が家にあればの話だ。
家にはできるだけ帰りたくなかった。早く家に帰るとだいたいけんかの最中だったり、何か事件が起きていたりして、そんなときほかの場所にいられたらいいのに、別の人になれたらいいのにと思った。何でもいいから誰かに話しかけてほしいと思うこともあった。話しかけてもらえるってことは、僕が大切だってことだから。でも僕は、誰にも邪魔されないからラッキーだってふりをしていた。
ルースに10時に店に来るように言われて、初日は誕生日とクリスマスの朝が一緒にやってきたような気持ちで、早くに目が覚めた。前の晩はなかなか寝つけなかった。ルースが何を教えてくれるのか予想もつかなかったけど、行くところがあるのはいい気分だった。
その朝、オレンジ色のスティングレーの自転車で店に乗りつけると、窓越しにルースが見えた。
ルースはにっこりと笑い、僕も笑い返した。でも、心臓はどきどきと波打っていた。自転車を飛ばしてきたせいもあったけれど、これから何が起きるのかわからなかったからだ。ルースが教えてくれるマジックを覚えられなかったらどうしよう? 僕の家族のことをルースが知ったらどう思うだろう? 彼女は頭がおかしくて、僕をさらって砂漠の真ん中に連れていって、僕の死体で黒魔術なんかしようとしていたら? とつぜん不安になった。
ドアを半分開けたところで、急に重く感じられた。なんで来るなんて言っちゃったんだろう?
ルースは笑って僕の名前を呼んだ。
「ジム、よく来たわね。来ないんじゃないかと思って心配したわ」
僕を殺そうとしているような狂った魔女には見えない。
僕はドアを最後まで押した。
「誰かに追いかけられてるみたいに自転車をこいでいたわね」
僕が入っていくとルースが言った
僕の不安や疑いがルースには見えたのかも。もしかしたらレントゲンみたいにぜんぶ透けて見えるのかも。僕は自分の古い運動靴を見下ろした。
右足の先に小さな穴が開いている。恥ずかしかった。見えないようにつま先を曲げた。
「さあジム、始めましょう」
僕は何をするのかまったくわからないまま、後についていった。
奥の部屋は薄暗くてちょっとカビ臭かった。窓はなく、古びた茶色の机とメタルの椅子が二つだけ。毛羽立った茶色のカーペットが部屋の真ん中に置いてあって、茶色い雑草が壁に囲まれてるみたいだった。
「座って」
ルースは片方の椅子に座って、僕はもう一方に座った。面と向かうと、膝がくっつきそうだった。緊張するといつもそうだけど、右足に貧乏ゆすりが出た。ドアに背を向けていたけれど、逃げ出さなきゃならなくなったらどこにドアがあるかはわかっていた。
「ここに戻ってきてくれてうれしいわ」ルースがほほ笑んだので、僕は少しだけ緊張がおさまった。
「大丈夫?」
「うん」
「いま、どんな感じ?」
「わからない」
「緊張してる?」
「ぜんぜん」
嘘をついた。
ルースは僕の右膝に手を置いて下に押した。すぐに貧乏ゆすりが止まった。もっとあやしいことになったら走って逃げようと身構えた。ルースは膝から手を離した。
「ジム、最初に覚えなくちゃならないトリックは、全身のすべての筋肉をリラックスさせることよ。見かけほど簡単じゃないの」
これまでにリラックスしたことなんてあったかな。いつも走ったり闘ったりできるように身構えていたような気がする。僕がまた目を開けると、ルースは首を右にかしげて僕の目をのぞき込んだ。
「わたしはあなたを傷つけたりしないわ。助けようとしてるの。信じてくれる?」
いままでの人生で誰かを信じたことがあったかわからないし、とりわけ大人を信じたことはなかったような気がする。でも、信じてほしいと言ってくれる人もいなかったから、そう聞かれてうれしかった。僕はルースを信じたかった。
「どうして僕を助けてくれるの?」
「会った瞬間に、あなたにその力があるってわかったからよ。わたしにはわかるの。あなたにもそれがわかるように教えてあげたいの」
その力が何なのか、どうして僕にその力があるというのかわからなかった。1968年の夏の日にあのマジックショップにふらりと入っていったのが僕でなくても、ルースはそう言っただろう。でも、そのときはそんなことまだ知らなかった。
「わかった。信じるよ」
「よかった。それが始まりよ。じゃあ、からだに集中して。どんな感じ?」
「わからない」
「自転車に乗ってると思って。すごく速く自転車をこいでるとき、どんな感じがする?」
「たぶん、すごく気持ちいい」
「いま、心臓はどうなってる?」
「ドキドキしてる」そう言ってニコリとした。
「ゆっくり、それとも速く?」
「速く」
「いいわ。手はどんな感じ?」
下を見ると、手で椅子のはしっこを握りしめていたことに気がついた。手を緩めた。
「リラックスしてる」
「そう。息は? 深い、それとも浅い?」
ルースは深く息を吸い込んで吐いた。
「こんな感じ? それともこっち?」
息切れした犬みたいに、ハアハアと息をしはじめた。
「その中間ぐらいかな」
「緊張してる?」
「ううん」
嘘だ。
「また貧乏ゆすりがはじまったわ」
「ちょっと緊張してるかも」
「話したくないことをいっぱい考えている」
「あなたの内側で起きていることはすべてからだに表れるの。本当にすごいのよ。どんな感じかって聞かれて、わからなかったり言いたくなかったりするとき、わからないって答えるでしょう。でもからだはいつもどんな感じかを知ってるの。怖いとき。幸せなとき。ワクワクしてるとき。緊張してるとき。怒ってるとき。うらやましいとき。悲しいとき。心は知らないと言っても、からだに聞けば教えてくれるわ」
僕にはそれが本当だってことがピンときた。家に帰ると、玄関を入った瞬間に母さんの気分がわかる。母さんが何も言わなくてもわかる。お腹のあたりに感じるんだ。
「すごく悲しかったり、怒ったりすることある?」
「ときどき」僕はいつも怒っていたけど、そう言いたくなかった。
「怒ったり、怖かったりしたときのことを教えてちょうだい。それを話すときにからだがどう感じるか教えてね」
ドキドキしてきた。なんて言っていいかわからなかった。
「ジム、いますごく考えているでしょう。あなたの頭にあることが聞こえてきそうなくらいよ。でも話してくれないとわからないの。いまこの瞬間に何を考えているか教えて」
「話したくないことをいっぱい考えてる」
ルースはにっこりした。
「いいのよ。間違ったことなんてないの。あなたが感じていることなんだから。感じることに、正しいとか間違ってるなんてない。ただそう感じるってだけだから」
その言葉は信じられなかった。僕は自分の感情や怒りや悲しみがすごく恥ずかしくて、押しつぶされそうだった。そこから逃げ出したくなった。
「三つ数えたら、話しはじめて。考えちゃだめよ、わかった? 数えるわよ。いい?」
頭に浮かんだいろんな考えや想いを必死に打ち消して、何か恥ずかしくない話を探した。
ルースに嫌われたくない。
「1……」
もしルースが信心深いカトリックで、僕がシスターをひっぱたいて退学になって、お姉さん夫婦のところに送られて、そこの学校でもけんかして退学になったと聞いたら、ひどい子供だと思うんじゃないか?
「2……」
酔っぱらって車をぶつけた父にどれだけ僕が怒っているかを話したら? フロントのところがぜんぶへこんでバンパーを紐でくくりつけたまま乗ってるなんて言ったらどう思われるだろう? まるで車を修理するお金もないほど貧乏ですって宣伝してるみたいじゃないか。
「3……さあ、話して」
「父さんが酒飲みなんだ。毎日じゃないけど、すごくたくさん飲む。飲みにいって何週間も帰らないこともあるし、生活保護以外にぜんぜんお金がなくて、それじゃ足りなくなる。酔っぱらってないときは、家の中でみんなが父さんを怒らせないようにびくびくしてるんだ。家で飲んでるときは怒鳴ったり、ののしったり、ものを壊したりして、母さんが泣きだす。そうなると兄ちゃんはどこかに行って、僕は自分の部屋にこもるけど、すごくひどいことになって何かしなくちゃいけないときのためにずっと聞き耳を立ててる。母さんが心配だから。母さんは病気でいつも寝てるし、父さんが酔っぱらったあとはますます具合が悪くなって、けんかになる。父さんが家にいると母さんは怒鳴ってて、父さんがいなくなると何もしゃべらない。ずっと寝てて、食べないし、何もしないんだ。僕はどうしたらいいかわからない」
「続けて、ジム」ルースは真剣に聞いていた。
変な話だなんて思っていないようだったし、少なくとも僕たちが貧乏すぎて汚らしいとも思っていないみたいだった。「続けて」と励ますように言った。
「学校から帰ったら、すごくしーんとしてたことがあった。なんか変な感じの静かさで。母さんの部屋に行くと、母さんは寝てたんだ。たくさん薬を飲んでた。気持ちを落ち着かせるための薬だったけど、飲みすぎた。隣の家に走っていって、病院に連れていってくれるように頼んだ。前にもこんな感じで病院に行かなきゃならなかった。母さんはね、あの、前にもやっちゃってたんだ。病院で母さんが寝ている横に付き添っていたら、カーテンの向こうの話し声が聞こえた。母さんのせいでたくさん書類を書かなくちゃいけないって男の人が怒ってて、あんなやつらのために時間を無駄にするのはうんざりだって言ってた。そしたら女の人が笑って、『これが最後かもね』とかなんとか言ったんだ。僕は何も言えなくて、二人は一緒に笑ってて、すごく悔しくてカーテンを引っぱがして叫びたかった。病院の人なんだから、そんなこと言っちゃだめでしょ。母さんにも腹が立った。なんでこんなことしなくちゃならないのかわからなかったから。こんなの間違ってるし、恥ずかしいし、母さんをこんなに怒らせて悲しませてる父さんにも腹が立った。父さんにも母さんにも病院のみんなにも怒ってる。ときどき、ものすごい怒りがこみ上げてくるんだ」
そこで話をやめると、どうしていいのかわからなくなった。
(第3回に続く)