“親指”がなくなった
1968年、カリフォルニア州ランカスター。
“親指”がなくなったことに気づいたのは、中学2年が始まる前のある夏の日だった。その頃の僕は自転車で町を走り回る以外にやることがなくて、熱くなった金属のハンドルは、まるでストーブの天板みたいだった。口の中はいつも埃っぽかった。砂漠の日光と熱のもとで生き延びてきた雑草とサボテンみたいに、ざらざらして草っぽい感じがした。家は貧乏で、僕はいつも腹ぺこだった。お腹が減るのはいやだった。貧乏もいやだった。
ランカスターの名物は近くにあるエドワーズ空軍基地で、一日中飛行機が頭の上を飛んでいた。4万5000フィートの上空からランカスターを見下ろしたら、きっとものすごく小さく荒れ果てた町に見えるはずだ。地面から30センチの高さで自転車をこいでいる僕にだって、この町は小さく荒れ果てて見えた。
その朝、僕は親指がなくなっていることに気がついた。僕はベッドの下の木箱にいろんな宝物をしまっていた。秘密の詩、くだらないトリビアなんかを思いつくままに書き付けた小さなノートもそこに入れていた。たとえば世界で毎日20件の銀行強盗が発生しているとか、インディアナ州ではサルにたばこを与えると犯罪になるとか。
ぼろぼろになったデール・カーネギーの『人を動かす』もあった。人に好かれるための6原則のページには折り目がついていた。誰かと話すときにはそのすべてを心がけていたけれど、笑うときはいつも口を閉じていた。小さい頃転んで前歯の乳歯が折れ、歪んで黒ずんでいた。でも治すお金はなかった。
箱にはマジックの種もしまっていた。僕のお気に入りは、絹のスカーフでもたばこでも隠せるプラスチックの親指カバーだった。そのニセの親指で、何時間も練習をした。その大事な親指がどこかにいってしまった。僕は悲しかった。
兄ちゃんが親指を持っていったか、少なくともどこにあるかは知ってるかもしれないと思った。自転車で探しにいくことにした。
大通り沿いのしょぼくれたショッピングモールに行った。お店以外には空き地と草しかなくて、両側に金網フェンスがずっと続いているだけだ。スーパーの前に年上の男の子たちがたむろしていたけれど、兄ちゃんはいなかった。いなくてほっとした。いじめられている兄ちゃんをかばっていつもけんかに巻き込まれていたから。
スーパーの隣は眼科で、その隣には知らない店があった。〈サボテンうさぎのマジックショップ〉。中に人がいるのかどうかは見えなかったけれど、開いていますようにと思いながら入り口まで自転車を押していった。お金はないけど、見るだけならいいだろう。自転車をそこに置いて入り口の扉を押した。最初はびくともしなかったのに、マジシャンが杖をひと振りしたみたいにすっとドアが開いた。
トランプの箱や魔法の杖やプラスチックカップや金貨がずらりと並んだ長いガラスのカウンターが目に入った。壁沿いにはマジックの舞台で使う重そうな黒い箱が積まれていて、大きな本棚はマジックとイリュージョンの本でいっぱいだった。店の隅には小さなギロチンと緑の箱が2個転がっていた。ウェーブのかかった茶髪の中年の女の人が、メガネを鼻先まで下げてペーパーバックを読んでいた。本に目を落としたままほほ笑んで、それからメガネを外して顔を上げ、僕の目をまっすぐのぞき込んだ。大人がそんなふうに僕の目を見たのは初めてだった。
「わたしはルース」女の人は言った。
「あなたは?」
大きく笑った深い茶色の目がとてもやさしかったので、僕は思わずニコリと笑い返した。
みっともない前歯のことはすっかり忘れて。
「ジムです」
「ジムね。来てくれてうれしいわ」
その人は僕の目をしばらくのぞき込んで、ため息をついた。それは悲しいため息じゃなくて、うれしいため息みたいだった。
「ご用は何かしら?」
一瞬、頭が真っ白になった。僕の答えが口から出るまで、その女の人はにこにこしながらのんびりと待っていた。
「親指」と僕は言った。
「プラスチックの親指、なくしちゃったんです。ありますか?」
その人は僕を見て、わけがわからないといった感じで肩をすくめた。
「マジック用の。プラスチックのニセ親指だよ」
「じつはね、わたしはマジックのこと何も知らないのよ」
僕はずらりと並んだ手品の小道具やカラクリを見回し、その人に目を戻した。
「ここは息子の店なんだけど、いまちょっといないの。息子が用事から帰ってくるまで、ここで本を読みながら店番してるだけ。ごめんなさいね」
「いいよ。せっかくだからほかのものも見ていく」
「どうぞご自由に。探しものが見つかったら教えてね」
そう言ってその人は笑った。なぜか幸せな気分になるような素敵な笑いだった。
「ランカスターに住んでるの?」とルースが聞いた。
「うん。でも町の反対側。兄ちゃんを探しに自転車で来て、この店を見つけたから入ることにした」
「マジックは好き?」
「大好き」
「どこが好きなの?」
かっこよくて面白いから、と言いたかったのに、ぜんぜん違う言葉が口から出てきた。
「何かを練習して上手になるのが好きなんだ。自分でコントロールできる感じが好き。トリックが成功するのも失敗するのも僕次第だから。ほかの人が何を言おうが、しようが、考えようが、関係ないから」
どうしてニセものとわかっていて騙されるのか
女の人がしばらく黙っていたので、僕はいろいろしゃべったことがとたんに恥ずかしくなった。
「親指にカバーをつけると、お客さんはそれを本物だと思うんだ。よく見たらニセものだってすぐにバレちゃうから、ちょっと隠すのがコツ。カバーの内側は空っぽで、もう一方の手のひらにこんなふうに移せるんだ」。
僕はよくある手品の動きを見せた。
「なるほどね。どのくらい練習してるの?」とルースが言う。
「ここ何カ月か。毎日練習してるんだ。最初は、教則本を見ながらやってもすごく難しかった。でもどんどん簡単になった」
「練習してるなんて偉いわ。でもどうしてこれがうまくいくかわかる?」
「どういう意味?」僕は聞いた。
「どうしてみんな騙されちゃうのかってこと。だって、すごくニセものっぽいって言ったじゃない」
ルースは急に真剣になった。本当に何か教えてもらいたがっているみたいに。大人が僕に何かを教えてもらいたがるなんて、これまでになかったことだ。僕はしばらく考えた。
「マジシャンがすごく器用だから、みんなが騙されるんだと思う。手の動きが見えないから。マジックのときは観客の気を散らさないといけない」
ルースは笑った。
「気を散らす。そのとおりね。あなた、すごく賢いわ。私の答えを聞きたい?」
彼女は僕の返事を待った。大人が僕に何か言っていいかと訊ねるなんて、また不思議な気分になった。
「うん」
「マジックがバレないのは、人が本当にそこにあるものじゃなくて、あるはずのものを見るからじゃないかしら。親指がそこにあるはずだと思うから、本物に見えてしまうの。脳ってすごく忙しく働いてるみたいだけど案外怠けものなのよ。それに、確かにあなたが言ったみたいに、人ってすぐ気が散っちゃうのね。でも手の動きで注意が逸れるわけじゃない。マジックを見ている観客のほとんどは、本当に見ているわけじゃないの。昨日やったことを悔やんだり、明日起こることを心配したりして、そもそも目の前の手品に集中してないの」
あまりよくわからなかったけど、僕はとりあえずうなずいた。
「誤解しないでね。わたしもマジックは好きなの。でもごまかしたり、トリックを使ったりしないのがいいわ。わかる?」
「ううん。でもそういうのかっこいい」僕は答えた。
ずっと話していたかった。これが本物の会話ってやつだ。
消えそうな火をすごい炎にする方法
「火を使ったトリックはやったことある?」
「親指のトリックで火のついたたばこを使うのはあるけど、僕はやったことない」
「じゃあ、消えそうな火を、大きな火の玉みたいなすごい炎に変える力があると想像してみて」
「すごいね。どうやるの?」
「それがマジックなの。あるものを使えば、ほんの小さな炎をすごく大きな火の玉に変えることができるの。それは心よ」
意味はわからなかったけど、面白そうだった。
「ジム、わたしあなたのこと気に入ったわ」
「ありがとう」そう言われて気分が上がった。
「この町には6週間しかいないけど、毎日会いにきてくれたらマジックを教えてあげる。店じゃ買えないような、何でも欲しいものを出せるマジックよ。本物のね」
「どうして僕に教えてくれるの?」と聞いた。
「消えそうな火を大きな炎に変えるやり方を知ってるからよ。わたしも教えてもらったから、今度は教える番。あなたには特別なものがあるわ。もし毎日欠かさずに来てくれたら、あなたにもそれがわかる。たくさん練習しないとダメよ。だけど、これからわたしが教えることは、あなたの人生を変えると請け合うわ」
なんて言っていいかわからなかった。僕が特別だなんて、これまで誰も言ってくれなかった。もしルースが僕や家族のことを知っていたら、僕のことを特別だなんて絶対に思わないはずだ。
何もないところからものを出す技を教えてくれるなんていう話を信じるかどうかはともかく、いまみたいな話をもっとしたかった。ルースといると、内側から気持ちがよくなる。なんだか愛されていると感じられる。赤の他人なのに妙だけど。
その夏、僕を待ち受けている冒険なんてないはずだった。でもルースは人生を変える何かを教えてくれると言う。ルースに本当にそんな力があるのかどうかはわからなかったけど、僕に失うものはないことは確かだった。それまでに感じたことのない希望がわいてきた。
「ジム、どう? 本物のマジックを習いたい?」
その質問をきっかけに、僕の人生の道筋と、僕の運命は、ガラリと変わることになった。
(第2回に続く)