小室哲哉の運命を変えた「2つのヒット曲」

90年代のJ-POPの主役の一人である小室哲哉さんは、どのようにして「ヒット曲」を作ってきたのでしょうか?
コンテンツから体験へと消費の軸足が移ってきたここ十数年の変化を経て、今、音楽シーンには新しい時代が訪れようとしています。音楽ジャーナリスト・柴那典さんがその実情と未来への指針を解き明かす新刊『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)では、小室哲哉さんへのインタビューも実施。11月15日の発売に向け、cakesでは本書の内容を特別先行掲載します(平日毎日更新)

(PHOTO: Getty Images)

小室哲哉はこうしてヒットを生み出した

 10年代、音楽ビジネスの構造が激変し、CDは売れなくともミュージシャンは生き残る時代となった。アーティストはライブに軸足を置くようになり、一時のブームとして消費されるのではなく、ファンと共に長く音楽活動を続け、キャリアを重ねることができるようになった。

 筆者の実感では、そのことをポジティブに捉えているアーティストやスタッフはとても多い。もちろん、誰にとっても楽な時代ではない。しかし「90年代の〝CDバブル〟の方がむしろ異常だった」という声を聞くことも増えた。

 かつての「ヒットの方程式」は、もはや威力を失った。場合によっては、必要とすらされていない。そのことは、10年代の音楽シーンを語る上での一つの大前提だ。

 では、それによって、ポップ・ミュージックのあり方やヒット曲の持つ役割はどのように変わったのだろうか。  
 そのことを探るべく、音楽プロデューサー・小室哲哉のもとを訪ねた。

 言うまでもなく、彼は90年代のJ-POPの主役の一人だ。安室奈美恵、篠原涼子、trf、華原朋美、globeなどを送り出し、数々のミリオンセラーを生み出してきた。これまでに関わった作品の累計売り上げ枚数は約1億7000万枚を数える。
 彼が楽曲を手掛けたアーティストは「小室ファミリー」と称され、「TKブーム」とも言われる社会現象的なメガヒットを導いた。まさに時代の寵児だった。

 「今より圧倒的にシンプルな考え方、単純な図式だったんです」と、彼は当時を振り返る。

 「80年代にCDが生まれて、それがマスに普及した。カセットテープやMDにコピーして楽しむ人もいましたけれど、当時は音質もCDが一番いいし、ジャケットや歌詞もついている。フォーマットとしてきっちり定着していたんです。

 作る側としても、まずはいい曲を作って、CDをリリースして、それをプロモーションして売るというのが基本だった。その売り上げ枚数がオリコンのチャートになる。1位になれば『流行っている』ということになる。雑誌もテレビやラジオもそれを参考にする。ヒットが一直線の図式から生まれていたんですね。とにかくCDセールスの枚数をどれだけ稼ぐかが基本だったんです」

 1983年に小室哲哉はTM NETWORKを結成、翌1984年にデビューを果たす。そのデビューアルバムの裏ジャケットに「Produced by TETSUYA KOMURO」と大きくクレジットが書かれていたことが象徴するように、当時からプロデューサーとしての意識は強かった。

 デビュー当時のTM NETWORKの売れ行きは芳しいものではなかったが、小室哲哉自身はグループと並行して作曲家としても活動。1986年に渡辺美里へ提供した「My Revolution」のヒットが彼の一つの転機となる。

 「『My Revolution』は、言われたことをすべてクリアしなければならないような、たくさんの制約の中で作りました。ドラマのオープニング主題歌でもあったし、『ヒット曲とは何か』ということも考えていた。職業作家に近いスタンスだったと思います」

 87年にはTM NETWORKもアニメ『シティーハンター』の主題歌「Get Wild」をきっかけに一躍人気バンドとなる。二つのヒット曲が彼の運命を変えた。

 「当時の『ヒット曲』は明確な数字でした。何枚売れたということですから、視聴率よりもっと明確だった。今の時代はライブが中心だから、『ヒットしている』と言っても、それが売り上げ枚数に直結しているわけではない。人気を示す指数のようなものになってしまっていますよね。

 でも、当時はそうじゃなかった。ライブのことは全部後回しだった。TM NETWORKのときも(当時所属していた)エピック・レコードには『ヒット曲が出たら、小室くんのやりたいようなライブをやらせてあげるよ』と言われていました」

 こうして小室哲哉はヒットメーカーとして頭角を現していく。93年には、当時ユーロビートなどダンス・ミュージックの輸入卸を手掛ける新興のレコード会社だったエイベックスと組み、同社の邦楽第一弾アーティストとしてtrfの活動をスタートする。

 「ゴリ押しでもいいから『これがいい』『これが今流行っているんだ』ということをCDを通して伝えていった。ユーロビートは特にそうです。欧米でこのパターンが流行っていて、しかも日本人に似合っている。そういうことを見せたのがtrfだったと思います」

 そして1994年にはTM NETWORKから名義が変わったTMNのプロジェクトを終了。音楽プロデューサーとして怒涛のようにヒット曲を送り出していくことになった。
 彼は「売れる曲」をどのように作っていったのか。

 「みんながわかりやすいものを作るということは意識していました。アレンジもシンプルで、メロディもとにかく覚えやすい。それに、僕は作曲の方から入りましたけれど、90年代に入ってからは全部自分で作ることができた。作詞家としても編曲家としても、プロセスを一人で同時進行できた。それがヒット曲をたくさん作れた理由のひとつだと思います。アーティスト本人の力によるものも多かったと思いますけどね」

J-POPの誕生がもたらしたもの

 90年代は「J-POP」という言葉が徐々に広まっていった時代でもあった。

 烏賀陽弘道『Jポップとは何か—巨大化する音楽産業』(岩波書店)には、1988年10月に洋楽中心のラジオ局として開局したFMラジオ局「J-WAVE」がこの言葉の発祥だという説がある。
 当時J-WAVE編成部チーフプロデューサーだった斎藤茂が、後日、新聞の取材に語った証言もそれを裏付ける。

「J」一番乗りと目されるのは、FM局のJ‐WAVE。一九八八年十月。開局してすぐ邦楽コーナー「J‐POP CLASSICS」を始めた。番組制作に携わった斎藤さんによると、同局のほかの番組でも邦楽を「Jポップ」と呼ぶことにしたという。「洋楽中心の局が流す邦楽。ニューミュージックより幅広い、新しい言葉がほしかった。議論を重ね、アメリカンポップスに対してジャパニーズポップス、でも、長すぎるというので、局の名前にも通じるJポップで行こう、となった。(朝日新聞99年6月5日「J あいまいな日本の自画像(探検キーワード)」)

 そしてその頃、音楽業界も大きく様変わりしようとしていた。

 「CDバブル」が到来したのは1991年のことだ。タイアップがその追い風となった。
 小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」(254.2万枚)、CHAGE&ASKA「SAY YES」(250.4万枚)、KAN「愛は勝つ」(186.3万枚)など、100万枚以上を売り上げるミリオンヒットの数は前年までの1曲から一気に7曲に増えた。これらは全てドラマやCMや映画のタイアップで広まった楽曲だった。

 その中でも大きな威力を持ったのが、月曜夜9時からフジテレビ系で放送されるテレビドラマ、通称「月9」とのタイアップだった。

 加えて、カラオケが果たした役割も大きかった。スナックや宴会場など酒席の娯楽だったそれまでのカラオケに代わって、個室型のカラオケボックスが郊外から都市に広まり、ブームを巻き起こした。さらに1992年には「通信カラオケ」が登場し、それまでの主役だったLD(レーザーディスク)式のカラオケを駆逐していった。
 こうして、若者の間で「テレビで流れている新曲をカラオケで歌う」という流行消費の形が一般的になった。

 ヒット曲は「聴かれる」ことではなく、10代や20代に「歌われる」ことによって生まれる。「カラオケで歌われるのがヒット曲の条件」と言われるようになった。
 「J-POP」という言葉が広まっていくのと並行した市場の急拡大。その背景にあったのは、タイアップとカラオケボックスだったのである。

次回「宇多田ヒカルの登場と20世紀の大掃除」は明日更新!

10年代の「新しいヒットの方程式」とは何か?

この連載について

ヒットの崩壊

柴那典

「心のベストテン」でもおなじみ音楽ジャーナリスト・柴那典さん。新刊『ヒットの崩壊』では、アーティスト、プロデューサー、ヒットチャート、レーベル、プロダクション、テレビ、カラオケ……あらゆる角度から「激変する音楽業界」と「新しいヒットの...もっと読む

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