よし、大坂に行こう

「江戸ではな、ぼうっとしている奴は置いていかれるだけだ。命じられることだけしていたら、年を取っても下働きのままだ。頭角を現したかったら、今、自分が何をすべきかを常に考えていろ」
江戸での生活を始めた河村屋七兵衛(のちの河村瑞賢)は、誰よりも積極的に仕事を探し、身を粉にして働いていた。


 江戸での日々が始まった。
 誰に何を言われずとも、誰よりも早く起き出し、店の周囲に水を打って掃き清める。表口や土間も箒の跡が残るほど、きれいに掃いた。
 番頭や別の小僧が起きてくると、何をやるべきか率先して問うた。それにより、徐々に朝の仕事が分かってきた。また、問わなければ誰も仕事を教えてくれないことも知った。
 七兵衛は誰よりも積極的に仕事を探し、身をにして働いた。出入りしているじようやといの「かしら」たちとも、すぐに打ち解け、仕事内容も教えてもらえるようになった。
 仕事内容は様々で、お上から入る大口のものもあれば、民から入る店舗の引っ越しなどの小さなものまである。また特定の仕事に精通した番頭を探してくれというようなものや、女中を数名、調達してくれというものもある。
 —つまり人を探してくるだけのものと、仕事ごと請け負うものがあるんだな。
 しかも口入屋は地域ごとに持ちつ持たれつの関係を築いており、横のつながりで注文が入る場合もある。
 すなわち深川、ほんじよ、浅草、した、本郷、小石川、こうじまち、赤坂、芝などに、それぞれ口入屋があり、仕事量がそれぞれの店の手に余る場合、横に仕事が回されてくるのだ。
 一方、江戸に流入してくる人口は日増しに増えてきており、人を雇うことは、さほど難しくはない。
 早朝に店に集まり、その日の仕事札をもらった頭たちは、朝一で自然発生的にできた人足よせなどに行き、そこで日雇いを募る。日雇い料は、労働の厳しさにより十銭から五十銭くらいまでまちまちだが、食うや食わずで江戸に流れてきた人々は仕事を選ばないので、賃金の高いものから、すぐに定員になった。
 七兵衛は頭たちに付いて歩き、その補助役を務めながら様々なことを学んだ。
 そんな日々が続き、次第に頭角を現してきた七兵衛は、五郎八の覚えもめでたく、寛永十二年(一六三五)には、十八歳で頭の一人にばつてきされた。
 すでに父の政次は二年前に他界していたが、その時、七兵衛は十六歳にすぎず、帰郷する小金さえも持ち合わせていなかった。そのため弟にびて、葬式一切を任せることにした。
 五郎八の事業は順調で、仕事の種類や量も次第に増えていった。頭の中には暖簾分けしてもらい、北関東などで開業する者もいた。五郎八は、その開業資金を出すことによって、独立した者の利益の一部が懐に入る仕組みも作り上げていた。
 ただ一つの懸念が、被差別民のとうりようである浅草だんもんとのいさかいである。これまでは互いの領分を侵さず、うまくやってきたのだが、仕事が増えるに従い、双方の仕事範囲が重なるようになってきた。それにより条件のいい仕事の取り合いや、注文主が双方に受注金額を競り合わせることなども起き、あつれきが絶えなくなった。
 同十三年の冬の日、大川端に五郎八の遺骸が上がったという知らせが届いた。

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江戸を造った男

伊東潤
朝日新聞出版
2016-09-07

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伊東潤

江戸の都市計画・日本大改造の総指揮者、その名は河村瑞賢! 伊勢の貧農に生まれた河村屋七兵衛(のちの瑞賢)は、苦労の末に材木屋を営むようになり、明暦の大火の折に材木を買い占めて莫大な利益を得る。 その知恵と並はずれた胆力を買われ...もっと読む

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