七
焼け野原となった江戸城下には、そこら中に遺骸が転がっていた。一月から二月中旬にかけては、皆が食べることで精いっぱいだったため、誰もそこまで気が回らなかったが、気温が上がり始めると、その腐臭は耐え難いものとなっていった。
さらにその場しのぎで、生き残った者たちが遺骸を川や海に流すので、海の汚染も始まった。江戸湾流は湾内を回っているので、遺骸は外洋に流されずに江戸近辺にとどまるため、魚介類や海藻にも被害が出始めた。
しかし幕府は、江戸再建計画に着手したばかりで遺骸の処理まで手が回らない。
この時の幕閣は、四代将軍・家綱の後見役の保科正之、「知恵伊豆」という異名を持つ老中の松平信綱、同じく老中の阿部忠秋が実権を握っていた。
彼らは江戸の町の過密化を解消すると同時に、防火性の高い町を造るべく、一月二十七日には早くも測量を始めていた。彼らの計画は土地造成と区画整理に始まり、水路や道路、また橋に至るまで都市基盤のすべてを網羅していた。あまりの手回しのよさに、明暦の大火は、彼らが故意に起こしたものではないかという憶測まで、後に生むことになる。
しかし、彼らに民の苦しみを理解しろと言っても無理である。七兵衛の売りさばいた材木は、諸大名や旗本の家の再建に回され、庶民にまで行き渡らない。そのため、例年になく江戸に降る雪の多かった一月から二月にかけて、焼け出された多くの民が凍死した。
時が来れば解決する寒さの問題はともかく、喫緊の課題として疫病の蔓延を防がねばならない。そのためにも町中に打ち捨てられている遺骸や、沿岸部を漂う水死体を早急に片付ける必要がある。
誰かが、幕閣にそれを知らしめねばならなかった。
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