霊岸島の河村屋

河村屋七兵衛(のちの河村瑞賢)は、木曽での材木買い付けが落ち着き、再び江戸に戻ってきた。
そこで七兵衛が目にしたのは、江戸湾に流れ出た被災者の遺骸だった




 明暦三年(一六五七)の二月初め、材木商人たちの波が一段落すると、七兵衛は川舟で尾張熱田まで下り、もうけた金で米を買い付けた。
 こうした場合の経済政策の常で、幕府は大火発生から三日後の一月二十一日には米価統制令を出し、金一両で買える米の下限は七斗(約百五キログラム)とし、それより高い値段で売ってはいけないと布告した。
 七兵衛は、金一両について八斗(約百二十キログラム)という米を百俵(約五・二五トン)も買い付けた。つまり金を約四十四両、支払ったことになる。
 これを菱屋の廻船に載せて一路、江戸を目指したが、海が荒れて各地に寄港しながらの航行となったので、江戸に着いたのは、熱田を出てから六日後の二月九日になった。
 江戸湾に入ると、空から雪が舞い落ちていた。雪は一月二十日の夜半から降り出し、その後も降ったりやんだりを繰り返しているという。
 大火直後の江戸は、生き別れた身内や縁者を捜して、さまよい歩く人々でいっぱいだった。だが、それも雪が降るまでで、生き残った人々も飢えと寒さに打ち震え、次々と死んでいったという。
『徳川じつ』には、「いまだいえなき細民、凍死する者多し」といった有様だったと記されている。
 江戸湾に入ると、れきが集まって島のようになり、海上を漂っているのが見えてきた。船は、それを避けるようにして霊岸島河岸へと向かう。
 視界の悪い中、ようやく陸岸が近づいてきた。しかし、そこかしこに見慣れないものが浮いている。それらは、河岸のまりのような場所に寄り集まっていた。
 —あれは何だ。
 目を凝らし、それが何であるか分かった時、七兵衛はがくぜんとした。
 —まさか、遺骸か。
 それは江戸湾に流れ出た被災者の遺骸だった。瓦礫のように軽いものなら、いかだのように絡み合って湾外に流れ出るのだが、水を吸った遺骸のように重いものは、潮溜まりに流れ寄せられていくのだ。
 場所によっては、百以上の遺骸が固まっているところさえある。
 —なんまいだ、なんまいだ。
 七兵衛は懐からじゆを取り出すと、懸命に経を唱えた。
 その中に兵之助がいると思うと、七兵衛は悲しみと口惜しさで、胸が張り裂けんばかりになる。
 水死体ははらわたが重くなるので、皆、顔を水面に付け、背だけ出した状態で浮かんでいる。その横顔は膨張がひどく、どれも同じに見える。
 その体も、水分を目いっぱい含んだことで着物が張り裂けてしまい、裸で手足を突っ張った格好になっている。それらの遺骸は、波が来る度に上下し、少しずつ位置を変えながら硬くなった体をぶつけ合っている。
 遺骸の背に、容赦なく雪が降り積もる。
 —さぞや、寒いだろうな。
 中には、懸命に大人たちの間に潜り込もうとしているかのような、小さな遺骸もある。
 —ああ、兵之助。
 それが兵之助のように思え、七兵衛はその場にくずおれそうになった。

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朝日新聞出版
2016-09-07

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江戸の都市計画・日本大改造の総指揮者、その名は河村瑞賢! 伊勢の貧農に生まれた河村屋七兵衛(のちの瑞賢)は、苦労の末に材木屋を営むようになり、明暦の大火の折に材木を買い占めて莫大な利益を得る。 その知恵と並はずれた胆力を買われ...もっと読む

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