周囲には煙が立ち込め始め、その中から人が飛び出してくるので、幾度となくぶつかる。
七兵衛は懸命に寺内や墓所内を走り回った。しかし外にはいないという直感が働き、寺の本堂に向かった。本堂では僧侶たちが、本尊の阿弥陀如来像に向かって一心不乱に経を唱えている。霊巌寺は、関東十八檀林(浄土宗の学問所)の一つに数えられるほどの大寺なので、若い僧侶も多い。
「経を唱えている場合じゃない。信心も命あっての物種だぞ!」
七兵衛が背後からそう声をかけると、半数ほどの顔が振り返った。
「この寺にも火は迫っている。あと半刻(約一時間)もすれば、この寺は焼け落ちる。すぐに逃げろ!」
そう喚いた七兵衛は、奥へ奥へと進んでいった。
途中で出くわした寺男や下女を捕まえては問おうとするが、皆、自分が逃げるのに精いっぱいで、体を身悶えさせて七兵衛の腕から逃れていく。
「お脇、どこにいる!」
「あんた、あんたかい!」
その時である。長廊の奥から、お脇が突然、現れた。
「捜したぞ」
お脇が七兵衛の胸に飛び込む。
「子らはどうした」
「庫裏にいるよ」
庫裏とは、寺院の台所のことである。
「どうしてそんなところに」
「そこに隠れているように、お坊さんから言われたんだよ」
確かにこの混乱では、子らとはぐれてしまうことも十分に考えられる。そのため、一時的に庫裏に隠れるという判断は間違っていない。
「よかった。本当によかった」
禅宗に帰依している七兵衛だが、この時ばかりは阿弥陀如来に感謝した。
庫裏に飛び込むと、子供たちが泣きながらしがみついてきた。
「よし、行こう!」
「行こうってあんた、どこへ行くんだい」
「北新堀河岸で菱屋の船が待っている」
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