火は迫っている、すぐに逃げろ!

明暦3年1月18日、本郷で上がった炎は、瞬く間に七兵衛のいる、一里(約四キロメートル)以上も離れた霊岸島(現在の東京都中央区新川)へと移ってきていた。
火の手から逃れるため船を手配した七兵衛であったが、近くの寺に隠れている妻子を探すため再び炎のもとへ向かっていくのであった。


 周囲には煙が立ち込め始め、その中から人が飛び出してくるので、幾度となくぶつかる。
 七兵衛は懸命に寺内や墓所内を走り回った。しかし外にはいないという直感が働き、寺の本堂に向かった。本堂では僧侶たちが、本尊のによらい像に向かって一心不乱に経を唱えている。霊巌寺は、関東十八だんりん(浄土宗の学問所)の一つに数えられるほどの大寺なので、若い僧侶も多い。
「経を唱えている場合じゃない。信心も命あっての物種だぞ!」
 七兵衛が背後からそう声をかけると、半数ほどの顔が振り返った。
「この寺にも火は迫っている。あと半刻(約一時間)もすれば、この寺は焼け落ちる。すぐに逃げろ!」
 そうわめいた七兵衛は、奥へ奥へと進んでいった。
 途中で出くわした寺男や下女を捕まえては問おうとするが、皆、自分が逃げるのに精いっぱいで、体をもだえさせて七兵衛の腕から逃れていく。
「お脇、どこにいる!」
「あんた、あんたかい!」
 その時である。ちようろうの奥から、お脇が突然、現れた。
「捜したぞ」
 お脇が七兵衛の胸に飛び込む。
「子らはどうした」
にいるよ」
 庫裏とは、寺院の台所のことである。
「どうしてそんなところに」
「そこに隠れているように、お坊さんから言われたんだよ」
 確かにこの混乱では、子らとはぐれてしまうことも十分に考えられる。そのため、一時的に庫裏に隠れるという判断は間違っていない。
「よかった。本当によかった」
 禅宗にしている七兵衛だが、この時ばかりは阿弥陀如来に感謝した。
 庫裏に飛び込むと、子供たちが泣きながらしがみついてきた。
「よし、行こう!」
「行こうってあんた、どこへ行くんだい」
「北新堀河岸で菱屋の船が待っている」

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江戸を造った男

伊東潤
朝日新聞出版
2016-09-07

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伊東潤

江戸の都市計画・日本大改造の総指揮者、その名は河村瑞賢! 伊勢の貧農に生まれた河村屋七兵衛(のちの瑞賢)は、苦労の末に材木屋を営むようになり、明暦の大火の折に材木を買い占めて莫大な利益を得る。 その知恵と並はずれた胆力を買われ...もっと読む

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