「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸で火事は日常的に起こっていたが、大火はそうそう多くはない。それでも妻子持ちの七兵衛は、早めに避難することにした。
「おい、飯はそこまでだ」
七兵衛はお脇と子らを霊巌寺に向かわせると、反対方向の北新堀河岸を目指した。というのも尾張から来る弁才船が、材木の積み下ろしを始めてしまってからでは、霊岸島に火が回った時、たいへんな損害をこうむるからである。
家を出ると、家財道具を車長持に積み込んで南を目指す人々に出くわした。彼らは新高橋を渡り、鉄砲洲方面に逃れようというのだ。その人の波を逆にかき分け、七兵衛は大川(隅田川)が江戸湾に注ぐ河口付近を目指した。
北新堀河岸のある新堀川沿いまで出ると、様々なものの積み込みが行われていた。商人たちが家財や商材を船に載せて、一時的に沖に避難しようというのである。
——こいつは、荷を下ろすどころではないな。
ここまで来て初めて、七兵衛にも事の重大さが分かった。留吉の話の何倍も火災は大きいのだ。むろん尾張から来る弁才船が、霊岸島に着岸して荷を下ろす心配もない。
その時になって、北の空に黒煙が上がっているのに気づいた。北西の風に乗り、火事は着実に迫っている。
——こいつは、まずいことになるかもな。
誰か知り合いはいないかと探していると、菱屋の船があった。菱屋は、七兵衛がよく使う廻船問屋である。
「菱屋の旦那」
ちょうどよく菱屋の主の権六が、若い衆を指揮して家財道具を積み込んでいるところに出くわした。
「ああ、河村屋さん」
「たいへんなことになりましたね」
「全く困ったものです。これから人や家財を積んで沖に船出するのですが、河村屋さんも乗りませんか」
「ぜひ、お願いします。ただ妻と子が霊巌寺にいるので、ひとっ走りして連れてきます。それまで待っていただけますか」
「いいですよ。まだ船を出すには間がある。早く行ってやんなさい」
「すいません」