どうせ、一度は捨てた命だ。

【重版記念】伊東潤さんのデビュー10周年記念作品『江戸を造った男』がcakesにて連載スタート!江戸の都市計画・日本大改造の総指揮者、その名は河村瑞賢!
伊勢の貧農に生まれた河村屋七兵衛(のちの瑞賢)は、苦労の末に材木屋を営むようになり、
明暦の大火の折に材木を買い占めて莫大な利益を得る。
その知恵と並はずれた胆力を買われた七兵衛は、食糧不足に悩む巨大都市・江戸の暮らしを潤すため、
航路開発、治水工事、銀山開発など、幕府の数々の公共事業に関わるようになる。
新井白石をして、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛された男の波乱万丈の一代記。

第一章 かんなんしん




 葛籠つづらを背負った身の丈六尺(約百八十センチメートル)にも及ぶ男が、雪の積もったを懸命に進んでいた。
 雪中を歩くことに慣れていないためか、しばしば男はつまずき、手をついてしまう。
 それでも男は歩みを止めない。
 —負けてたまるか。
 男が見上げる夜空には星の一つもなく、ただ無数の雪片が、果てることもなく降ってきていた。
 木曾福島を出た時はさほどでもなかったが、あげまつに近づくに従い、積雪は二尺余(約六十センチメートル)に及び、歩くというより雪を左右にかきながら進むといった有様である。
 激しかった横殴りの風が、夜になって幾分か収まったことくらいが唯一の救いだが、周囲はせきも弁ぜぬ闇に閉ざされているため、腰につるしたがんどうの灯だけが頼りである。
 男は雪をかき分け、何かに追われているかのように進んだ。
 —どうせ、一度は捨てた命だ。
 その思いだけが、男を歩ませていた。
 夜が明けるまで鳥居峠の番小屋にとどまることも考えたが、そんな悠長なことでは、誰かに出し抜かれる。とくに木曾谷に近いや三河の商人たちに気づかれてしまえば、すべては手遅れになる。
 彼奴きやつらは、もう来ているかもしれない。
 それを思うと、雪中から抜く足がもどかしい。
宿で泊まった宿の主人のおかげで、じろがさみのきやはん、輪かんじきなど、雪中を歩くための装束一式をそろえられたのが幸いだった。冬でも木曾谷に向かう旅人のために、奈良井宿に用意があったからよかったものの、もしもそれがなかったら、雪中で立ち往生し、凍死していたに違いない。
 やがて道は細くなり、半身になって崖に手を掛けつつ進まざるを得なくなった。さらに行くと道はいっそう狭まり、ついに途切れた。否、正確には道がなくなり、崖に張り付くようにして橋が架けられていた。どうやら、その先で道は再び続いているようだ。
 橋というのは、川をまたぐように架けられるものだが、この橋は谷筋と平行に架けられていた。つまり崖が急すぎて道を造れず、やむなく橋で間に合わせているのだ。しかもそれは、丸太の上に板材が載せられ、ふじづるでつられているだけの粗末なものである。
 —これがかけはしか。
 奈良井宿のおやの言っていたことが思い出される。
「雪が三寸(約九センチメートル)も積もっていたら、桟は重みに耐えられない。黙って福島まで引き返しなさい」
 桟とはさんきようのことである。崖が切り立って道が付けられない場所では、よく見られるものだが、その桟は雪が積もっているので、極めて危険な状態にある。
 —こんなものが渡れるか。
 恐る恐る桟に近づき、そこに積もった雪を確かめると、二寸から三寸はある。風が吹いて雪を飛ばすため、街道よりは積もっていないが、雪の重さに人の体重が加われば、藤蔓で結んでいるだけの桟が耐えられるとは思えない。
 —どうする。
 江戸で待つ妻子の顔が脳裏に浮かぶ。
 —やはり命あっての物種だ。
 そう思って福島宿に戻ろうとすると、強い風が吹いて、桟を岩壁にたたき付けた。その拍子に雪が音を立てて落ちていった。雪明りに照らされた雪片は、きらきらと輝きながら漆黒の闇にのみ込まれていく。
 空を見上げると、いつの間にか雪はやみ、雲間から星が顔をのぞかせている。
 —わいの背を押しているのか。
 雲の間で光る星々が、男に「行け」と言っているような気がする。
 —どうする。
 眼下からは木曾川の川音が聞こえてくるが、高さは定かでない。
 —落ちたら間違いなく死ぬ。
 死の恐怖が脳裏を占める。だが死は、いつ訪れるか分からないのも事実である。
 —わいの運が、どれほどのものか試してみるか。
はらを決めた男は、輪かんじきを脱ぎ、最初の一歩を踏み出した。体重を乗せたとたん、藤蔓がきしみ音を上げる。
 続いて次の一歩を慎重に踏み出す。藤蔓が悲鳴を上げ、恐怖が胸底からわき上がってきた。
 それを抑え込むようにして、男はまた一歩、前に進んだ。
 桟は意外に頑丈にできているようだ。しかし油断は禁物である。
 かなりの時間をかけて、男は桟の中央付近に至った。
 —焦るな。
 風が吹いて桟を揺らす。崖に生える松の枝に積もっていたせつかいが、転がるように落ちていく。
 一歩、また一歩と男は慎重に進んだ。
 やがて腰の龕灯が、桟の終着を照らした、その時である。
 風が強く吹いた。
 男を乗せたまま桟が揺らぐ。
 慌てて藤蔓につかまろうとしたが、手が滑った。
「うわっ」
 左足が底板の上を滑る。男が膝をついた衝撃で、藤蔓の一本が切れた。
「ああ」
 男は漆黒の闇の中に落ちていく己の姿を、まざまざと思い描いた。
 しかし男は落ちなかった。桟は傾いたが、まだ岩壁にぶら下がっている。
がんかいのような男の顔から、汗が噴き出す。
 それでも男はつんいになり、にじるようにして進んだ。
しきそくくうくうそくしき……、不生ふしようめつ不浄ふじよう
はんにやしんぎよう」の一節を口ずさむと、なぜか心が落ち着いてきた。
「どうか力を貸して下さい。お助けいただけたら、生涯で稼いだ金の半分を寄進いたします」
 それを言葉に出して言うと、力がわいてきた。
 最後の板に手が掛かる。男はそれを掴むと、思いきり体を崖際に付けられた道に投げ出した。
 遂に男は、木曾路最大の難所と言われる桟を渡り切ったのだ。
 命が助かった喜びとも、達成感ともつかない何かが胸に迫ってきた。
 男は泣いた。泣く以外、何も思いつかなかった。
 やがて立ち上がった男は、輪かんじきをはき、先ほどと同じように雪道を進んだ。ほおに流れた涙が凍ったためか、顔がかじかむ。
 やがて夜が明けてきた。
 空には雲が広がり、日の光は拝めない。それでも小鳥の声が、わずかに聞こえる。
 下を見ると、木曾川が勢いよく流れていた。谷底は思っていたよりも、はるかに下方にある。
 やがて道は谷筋から離れ、小高い丘に至った。
 —ようやく着いたか。
 眼下に上松の宿らしきものが見える。
 家々からは、いくつもの炊煙が上がっていた。男は腹がすいていることに気づいた。すでに奈良井で作ってもらった握り飯は、胃のに収まっている。福島を通過したのは夜になってからだったので、遠慮して飯を分けてもらうことをしなかったのが悔やまれる。
 —どこかの家に頼んで飯を食わせてもらおう。
 疲れた足を引きずりながら、男は上松の宿に入っていった。

江戸を造った男

伊東潤
朝日新聞出版
2016-09-07

コルク

この連載について

江戸を造った男

伊東潤

江戸の都市計画・日本大改造の総指揮者、その名は河村瑞賢! 伊勢の貧農に生まれた河村屋七兵衛(のちの瑞賢)は、苦労の末に材木屋を営むようになり、明暦の大火の折に材木を買い占めて莫大な利益を得る。 その知恵と並はずれた胆力を買われ...もっと読む

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