第一章 艱難辛苦
一
葛籠を背負った身の丈六尺(約百八十センチメートル)にも及ぶ男が、雪の積もった木曾路を懸命に進んでいた。
雪中を歩くことに慣れていないためか、しばしば男はつまずき、手をついてしまう。
それでも男は歩みを止めない。
——負けてたまるか。
男が見上げる夜空には星の一つもなく、ただ無数の雪片が、果てることもなく降ってきていた。
木曾福島を出た時はさほどでもなかったが、上松に近づくに従い、積雪は二尺余(約六十センチメートル)に及び、歩くというより雪を左右にかきながら進むといった有様である。
激しかった横殴りの風が、夜になって幾分か収まったことくらいが唯一の救いだが、周囲は咫尺も弁ぜぬ闇に閉ざされているため、腰につるした龕灯の灯だけが頼りである。
男は雪をかき分け、何かに追われているかのように進んだ。
——どうせ、一度は捨てた命だ。
その思いだけが、男を歩ませていた。
夜が明けるまで鳥居峠の番小屋にとどまることも考えたが、そんな悠長なことでは、誰かに出し抜かれる。とくに木曾谷に近い美濃や三河の商人たちに気づかれてしまえば、すべては手遅れになる。
——彼奴らは、もう来ているかもしれない。
それを思うと、雪中から抜く足がもどかしい。
奈良井宿で泊まった宿の主人のおかげで、網代笠、蓑、脚絆、輪かんじきなど、雪中を歩くための装束一式をそろえられたのが幸いだった。冬でも木曾谷に向かう旅人のために、奈良井宿に用意があったからよかったものの、もしもそれがなかったら、雪中で立ち往生し、凍死していたに違いない。
やがて道は細くなり、半身になって崖に手を掛けつつ進まざるを得なくなった。さらに行くと道はいっそう狭まり、遂に途切れた。否、正確には道がなくなり、崖に張り付くようにして橋が架けられていた。どうやら、その先で道は再び続いているようだ。
橋というのは、川をまたぐように架けられるものだが、この橋は谷筋と平行に架けられていた。つまり崖が急すぎて道を造れず、やむなく橋で間に合わせているのだ。しかもそれは、丸太の上に板材が載せられ、藤蔓でつられているだけの粗末なものである。
——これが桟か。
奈良井宿の親父の言っていたことが思い出される。
「雪が三寸(約九センチメートル)も積もっていたら、桟は重みに耐えられない。黙って福島まで引き返しなさい」
桟とは桟橋のことである。崖が切り立って道が付けられない場所では、よく見られるものだが、その桟は雪が積もっているので、極めて危険な状態にある。
——こんなものが渡れるか。
恐る恐る桟に近づき、そこに積もった雪を確かめると、二寸から三寸はある。風が吹いて雪を飛ばすため、街道よりは積もっていないが、雪の重さに人の体重が加われば、藤蔓で結んでいるだけの桟が耐えられるとは思えない。
——どうする。
江戸で待つ妻子の顔が脳裏に浮かぶ。
——やはり命あっての物種だ。
そう思って福島宿に戻ろうとすると、強い風が吹いて、桟を岩壁に叩き付けた。その拍子に雪が音を立てて落ちていった。雪明りに照らされた雪片は、きらきらと輝きながら漆黒の闇にのみ込まれていく。
空を見上げると、いつの間にか雪はやみ、雲間から星が顔をのぞかせている。
——わいの背を押しているのか。
雲の間で光る星々が、男に「行け」と言っているような気がする。
——どうする。
眼下からは木曾川の川音が聞こえてくるが、高さは定かでない。
——落ちたら間違いなく死ぬ。
死の恐怖が脳裏を占める。だが死は、いつ訪れるか分からないのも事実である。
——わいの運が、どれほどのものか試してみるか。
肚を決めた男は、輪かんじきを脱ぎ、最初の一歩を踏み出した。体重を乗せたとたん、藤蔓が軋み音を上げる。
続いて次の一歩を慎重に踏み出す。藤蔓が悲鳴を上げ、恐怖が胸底からわき上がってきた。
それを抑え込むようにして、男はまた一歩、前に進んだ。
桟は意外に頑丈にできているようだ。しかし油断は禁物である。
かなりの時間をかけて、男は桟の中央付近に至った。
——焦るな。
風が吹いて桟を揺らす。崖に生える松の枝に積もっていた雪塊が、転がるように落ちていく。
一歩、また一歩と男は慎重に進んだ。
やがて腰の龕灯が、桟の終着を照らした、その時である。
風が強く吹いた。
男を乗せたまま桟が揺らぐ。
慌てて藤蔓に掴まろうとしたが、手が滑った。
「うわっ」
左足が底板の上を滑る。男が膝をついた衝撃で、藤蔓の一本が切れた。
「ああ」
男は漆黒の闇の中に落ちていく己の姿を、まざまざと思い描いた。
しかし男は落ちなかった。桟は傾いたが、まだ岩壁にぶら下がっている。
岩塊のような男の顔から、汗が噴き出す。
それでも男は四つん這いになり、にじるようにして進んだ。
「色即是空、空即是色……、不生不滅、不垢不浄」
「般若心経」の一節を口ずさむと、なぜか心が落ち着いてきた。
「どうか力を貸して下さい。お助けいただけたら、生涯で稼いだ金の半分を寄進いたします」
それを言葉に出して言うと、力がわいてきた。
最後の板に手が掛かる。男はそれを掴むと、思いきり体を崖際に付けられた道に投げ出した。
遂に男は、木曾路最大の難所と言われる桟を渡り切ったのだ。
命が助かった喜びとも、達成感ともつかない何かが胸に迫ってきた。
男は泣いた。泣く以外、何も思いつかなかった。
やがて立ち上がった男は、輪かんじきをはき、先ほどと同じように雪道を進んだ。頬に流れた涙が凍ったためか、顔がかじかむ。
やがて夜が明けてきた。
空には雲が広がり、日の光は拝めない。それでも小鳥の声が、わずかに聞こえる。
下を見ると、木曾川が勢いよく流れていた。谷底は思っていたよりも、はるかに下方にある。
やがて道は谷筋から離れ、小高い丘に至った。
——ようやく着いたか。
眼下に上松の宿らしきものが見える。
家々からは、いくつもの炊煙が上がっていた。男は腹がすいていることに気づいた。すでに奈良井で作ってもらった握り飯は、胃の腑に収まっている。福島を通過したのは夜になってからだったので、遠慮して飯を分けてもらうことをしなかったのが悔やまれる。
——どこかの家に頼んで飯を食わせてもらおう。
疲れた足を引きずりながら、男は上松の宿に入っていった。