その坂は「ため息坂」と呼ばれていた。
夕刻をすぎると「口笛坂」とその呼び名が変わる。
坂の先には笑福亭松鶴の自宅があった。松鶴が落とすカミナリのすさまじさから、一門の弟子たちは坂を登るとき、思わず「ため息」を漏らした。逆に帰り道には開放感から「口笛」を吹いて降りていく。そんなことから一門の間でそう呼ばれるようになった。
それほど松鶴は厳しく、畏れられていたのだ。
そして笑福亭鶴瓶が「スケベ」になったのは間違いなく、この師匠の教えが根底にあるのだ。
しかし鶴瓶は、松鶴に落語を一席も教えてもらえなかった。
相手の勘違いがまさかのしくじりに
きっかけは些細なある事件だった。
一番最初に稽古をつけてもらう前のことだった。鶴瓶は師匠たちのために飲み物を用意していた。
ちなみに鶴瓶は松鶴を「おやっさん」、その奥さんを「あーちゃん」と呼んでいた。おやっさんにはブラックコーヒーを、あーちゃんにはミルクティをこしらえるのが日課だった。
鶴瓶の父親はコーヒー好きでインスタントではなく、豆からコーヒーをたてて飲んでいた。その際、ミルクを流すようにスーッと入れていた。それが恰好いいと思っていた鶴瓶は、大事な師匠夫人へ飲み物をこしらえるのだから、とそれを真似た。
あーちゃんにミルクティを入れる際、紅茶にミルクをスーッと流し、表面をミルクで覆うようにしたのだ。
それを見て勘違いしたのはあーちゃん。
「わて、ミルクて言うてないがな!」
もちろんかき混ぜればミルクティだったのだ。だが、口答えをすれば、あーちゃんに恥をかかせてしまう。「すんません」と謝った。
「だあほっ! だいたいお前は、いつもそうやって人を笑わそうと思うとうねん!」※1
誤解した松鶴も烈火の如く怒り、それから落語の稽古をしてくれなくなったというのだ。
兄弟子たちに稽古をつけるときも、一緒についていこうとするとおやっさんは言う。
「お前はもうええ」
ある日、それを不憫に思った兄弟子の一人が「おやっさん、今日機嫌がいいから言え」と囁いた。
意を決して鶴瓶が松鶴に直談判した。
「師匠、すんません」
「なんや」
「あのう、明日から、稽古お願いします」
しかし、返ってきた答えは身もふたもないものだった。
「嫌や」※1
可愛がられたが、落語は教えてくれなかった
松鶴は鶴瓶を嫌っていたわけではない。実際、飲み会などには必ず鶴瓶を連れて行った。
落語を教えなかったのも彼のしくじりだけが理由ではないだろう。
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