落語界屈指の厳しさで恐れられた松鶴の門戸を叩く
「あー、また“けったいな顔”のが来よったよー」
呆れたような声が奥から聞こえてきた。
「けったいな顔」って、と扉の前で思わず吹き出しそうになった。
「笑福亭鶴瓶」になる前の駿河学が、笑福亭松鶴に弟子入りしようと、松鶴の自宅を訪ねたときだった。
スケベな鶴瓶のルーツのひとつは間違いなく、師匠・笑福亭松鶴だ。
その弟子入りの経緯からもそれをうかがい知ることができる。
最初呼び鈴を鳴らして出てきたのは松鶴の奥さんだった。
「今日はいてないから、またちゃう日に来て」
そう追い返された。けれど、違う日といってもいつ来ればいいか分からない。だったら、このまま松鶴の帰りを待った方がいいだろう。そう思った鶴瓶は家の外で、松鶴の帰宅を待った。
すると家の中から聞き覚えのある声がするのだ。間違いなく笑福亭松鶴だった。なにしろ特徴のあるダミ声。間違えようがなかった。
しかし、居ると分かっていても、すぐにまた訪ねていけば、奥さんの顔を潰すことになる。
だから鶴瓶は1時間程度時間を潰した。
そして再び訪れた鶴瓶に奥さんは「けったいな顔」と観念して言ったのだ。
「入れたれ」
奥から松鶴の声が聞こえ、鶴瓶は家に入ることを許された。
松鶴は、2月の冷えた日だというのに、パンツ一枚にランニングシャツという出で立ちで掘りごたつの中に入っていた。そんな恰好でも威厳に満ち迫力があった。
鶴瓶は誠心誠意、弟子入り志願の理由を説明した。だが、松鶴は弟子入りを許すとも許さないとも言わず、落語家という職業がいかに厳しい職業かということを
そんな話を真剣に聴きながらも、鶴瓶の目にあるものが飛び込んできた。
毛だ。
真剣に喋っている松鶴の上唇あたりに、犬の毛がくっつき、それが口を動かすのに併せてそよいでいる。
「それを取れ」ともうひとりの自分が自分に命令する。
「それ、取ったらおもろいで」
松鶴は落語界屈指の厳しさで知られ恐れられていた存在だ。もちろんその噂は鶴瓶も知っていた。何より目の前にいるその威圧感がそれを物語っていた。だが、その畏れと同じくらい「おもろい」誘惑にかられてしまう。それが鶴瓶の性だった。
「こいつはなんか、人間的におもろいやっちゃ」
そんな風に思われたいスケベ心に抗えられなかった。
「ちょっとすんません。唇に犬の毛がついてて、ごっつ気になるんで」
そう言って鶴瓶は松鶴の口元に手を伸ばし、その毛を取り除いた。不遜な態度と取られかねない大胆な行動だ。怒鳴られてもおかしくない。だが、松鶴のリアクションは違っていた。