着付けの学校で一緒になった、自由が丘在住の新婚の女性は
「いまどきの男の人って、家族を養おうっていう気がほんとにないよね。あたしは、お父さんがサラリーマン、お母さんが専業主婦っていう普通の家で育ったし、別に仕事が好きなわけでもないから、普通にそのうち結婚して、子供産んで、専業主婦になるんだろうと思ってたのね。でもそれを言うと引かれちゃうんだよ。親の代とは違いますからって、できればフルタイムで働いて生活費も出してほしいって言うの。それが無理なら派遣でもパートでもいいから、少しは稼いでほしいって。そのくせ、家事とか育児とかはする気なくて、最初から女に丸投げする気満々なんだよね。うちの旦那さんも、家のことしてって言うとめちゃくちゃ不機嫌になって、空気を支配してくるの。昭和のお父さんかって感じ」
授業終わりに行った教文館のカフェで、美帆さんは華子の相談そっちのけで、日頃の鬱憤を吐き散らした。
「結婚相談所って、どうですか? 良かったですか?」
「まあ、なんとか結婚できたから、良いか悪いかで言ったら良かったんだけど、それなりに時間はかかったよ。慎重に選んだから、二年……ううん、三年くらいかかっていまの旦那さんと出会ったもん。そこから普通に一年つき合ってやっと入籍したから、実質四年かかったことになる」
「長あぁ……」
「まあ、それが普通じゃない? 交際二ヶ月で電撃結婚とか、あたしもさんざん夢見たけど、芸能ゴシップでしか聞かないよ」
華子は、その言葉を聞いていきおい絶望した。
彼女はいつもいつも、その可能性にばかり賭けていたのだった。今日誰かと出会ったとして、二ヶ月か三ヶ月で婚約し、たっぷり余裕を持って式の打ち合わせをして、籍を入れて、三十歳になるまでに一人目の子供を産んでおく、などと指折り数えるのが癖になっている。少女じみた思考回路から抜け出せない華子は、実際にそれが現実になるものと信じてもいた。だからこそ、たまたま街でほんのわずかに接触した素敵な男性─カフェでとなりの席に座ったメガネの男性や、電車で目の前に立っていた背の高い男性や、エレベーターで二人きりになった優しそうな男性─と、いちいち恋を予感して、ぽーっとなってしまうのである。そして彼らがなにごともなく華子の前を行き過ぎ、なんのことはなく街の雑踏に紛れるのを見ると、ほとんど失恋に近いがっかりした気持ちを抱くのであった。
「榛原さんの焦る気持ちは、めちゃくちゃよくわかるよ」
美帆さんは、パウンドケーキを一切れひょいと口に運んで、同情の眼差しを向けた。
「あたしもいろんな人に、いい人紹介してしてってお願いしまくってたけど、誰も紹介なんかしてくれなかったな。してくれたとしても、なんか微妙だったり。合コンでもそうだよね。合コンはほんと、消耗するだけ。合コンに来る男の人って、みんなキャバクラ感覚なんだもん。だからあたし、もし自分が紹介してってお願いされる側になったら、絶対いい人紹介するぞって、決めてたんだ」
ここへきて、美帆さんは姉御のような懐の深さを見せた。
「うちの旦那さんの友達に、一人感じのいい人がいたから、よかったらその人紹介するよ。イケメンで、体育会系で、しかもおもしろい人なの。旦那さんに頼んでみるね」
華子は、抱きつかんばかりに感謝を表し、「このご恩は一生忘れません」と、何度も何度も頭を下げた。
美帆さんとご主人、その友人男性と華子の四人で食事することになったのは、ちょうど梅雨入り宣言がなされた日のことだった。
先方はたいそう乗り気だという話は美帆さんから聞いていたし、幹事役を買って出たお相手の彼からは、こんなメールが華子に届いていた。
〈どーも、茂田井とは大学時代からのつき合いで、奥さんとも何度かみんなでメシ行ってます! 会ってみてとすすめられ、榛原さんの連絡先をパスされました。よかったらさっそく今度、みんなでメシ行きましょう! スケジュール調整するんで、空いてる日を教えてください!〉
勢いのある文面にやや気圧されたものの、イニシアティブを取ってくれるところは高得点だ。アテンド力ゼロの渡邉のあとだったこともあって、華子はなおさら感激した。
〈じゃあ六月五日に! 店は俺がよく行くココでいいですか? 行ったことあります? →http://tabelog.com/tokyo……〉
リンク先へ飛んでみると、それは絵に描いたような激安大衆居酒屋である。華子は困惑しながらも、〈はじめてですけど、興味あります〉と送った。たしかに興味はあった。行ってみたいかはさておき。
昭和っぽい安普請に統一された店内は、タバコの煙と威勢の良すぎる店員のあいさつとサラリーマンが混沌と融合していた。場違いなまでに身ぎれいな格好でやって来た華子は、予約した席に通され、Tシャツ一枚というラフな格好の男性と向かい合う。男性は、美帆さんから聞いていたとおり、たしかにイケメンだし、体も引き締まって見るからに体育会系だ。華子の胸がキュンとときめくが、次の瞬間、彼はこう言って華子の容姿を褒め称えた。
「え、自分めっちゃ可愛いやん!?」
「はい??」
華子は横っ面をビンタされたように驚き、思わず訊き返してしまう。
たしかに見栄えは申し分ない。けれど、一聴して関西人とわかるイントネーションを聞くなり、華子は思わず面食らった。もちろんテレビでは関西弁をしょっちゅう耳にするし、別に関西の人たちに対してなにか特別な悪感情を抱いたこともないのだけれど、華子の交友関係には関西出身の人は一人もいないし、くり返し妄想した電撃結婚ストーリーの相手にも、関西の人は一度も登場しなかった。美帆さんに紹介してもらった男性が、東京出身の人ではないかもしれないという可能性など、まったく予期していなかった。
「茂田井夫妻はまだ来てへんみたいやな。あ、LINE入ってるやん。十分遅れるごめんやて」
華子が表情を曇らせていると、彼は畳み掛けるように言った。
「なんや自分、腹の具合でも悪いんか?」
「そうですね、ちょっと……ごめんなさい」
華子はトイレに駆け込むが、そこは男女共用で、ドアを開けると便座は上がったまま、黄ばんで薄汚れた裏側を晒していた。
ふわりと広がったスカートの裾が、ドアや壁に触れないように手で押さえ、華子は中に入ろうとするも、結局用を足さずに引き返してきた。
「どしたん?」
彼は華子の様子を気にして心配するものの、
「トイレが……ちょっと……」
「ああ、ゲロでもついてたん?」けけけと、彼は可笑しそうに言う。
「いえ、そういうのではなくて……」
華子はもう一分一秒もここにいたくないと思い、具合が悪いから先に帰ると言って、注文もしないまま店を出てしまった。
激安大衆居酒屋を出て大きな通りまで歩くと、華子は助けを呼ぶように手を上げてタクシーを止めた。
「松濤まで」