1968年5月パリカルチェラタンの騒擾

1960年代末、フランスの若者も日本の若者も戦いを続けていた。1968年の「フランス5月革命」と日本の学生運動。それぞれが掲げた「革命」は何を変えることができ、何を変えられなかったのか。若者文化がどのような状況・気分によって支えられたのかを読み解く。

 70年代には「祭りのあと」という空気が流れていた。
 いろんなサブカルチャーが始まった時代ではあるが、それは「メインカルチャーが去ったあと」という気配があったからだ。想像するほど楽しいものでもない。
 60年代は、まだメインカルチャーが元気だった。言い方を換えれば「明治生まれの文化人がまだ現役だった」時代である。頑固であり、大きな壁であった。
〝メインカルチャーの時代〟には〝政治〟が盛んに論じられた。
 おそらく「いまは不幸な時代である」と信じた若者が多かったからだろう。どこかに不幸な人たちがいる、と真剣におもえる時代だったのだ。かれらは、その人たちのために戦おうとした。でもリアルに想像できない人たちのための戦い続けるのはむずかしい。どんどん迷走していった。

 日本での学生運動の〝象徴的シーン〟は1969年1月19日の東京大学安田講堂攻防、ということになるだろう。
 その前年に、世界に衝撃をあたえた「パリの五月騒乱」があった。
 「五月革命」と称されている騒擾である。
 ただ、ほんとうの革命ではない。かつてパリで展開された1830年の「七月革命」や、1848年の「二月革命」とちがい、国王を追放したり、政府を打倒したりしていない。「五月革命」という呼称は、学生側の気分を表しているにすぎない。用語としては「五月危機」と呼ぶほうが正しい。革命運動として歴史書に記録されることもないだろう。
 それでもこれを「五月革命」と呼んでいる。それが当時の気分をよく反映しているとおもう。(たぶんに日本の気分を、なのだけど)。
 みんな、革命をやりたかったのだ。

 「革命でも何でもない〝フランス五月革命〟」の推移をみていきたいとおもう。
 1968年の3月から4月にかけ、パリ郊外の〝パリ大学のナンテール分校〟で学生運動が展開されていた。この年は、ベトナム戦争反対運動がもっとも盛り上がった年である。
 学生運動家による講義中の教室の占拠や、無届けのデモがしきりに繰り返される。大学側は5月2日の学生集会を阻止するため、ナンテール校を閉鎖した。大学生は校内へ立ち入れなくなった。彼らはパリ中心地のカルチェラタンへ向かった。
 1968年5月3日。金曜日。カルチェラタンにあるソルボンヌ大学(パリ大学のソルボンヌ校)で大がかりな学生集会が開かれ、大学側はそこへ警官隊を導入する。五百人以上の学生が検挙された。ソルボンヌ校も封鎖され、ここも学生は立ち入れなくなった。
 5月6日月曜日、この措置への抗議集会が開かれる。数千人で始まったデモ隊に向かって、警察は無数の催涙弾を打ち込む。夜には学生は一万五千人の集団となり、警察隊と激しく争った。敷石を剥がし、投石を繰り返し、市街にバリケードも作られた。学生の逮捕者は四百人を越え、負傷者は八百人、警察側の負傷も三百名を越えた。
 5月10日。金曜日。この日の学生のデモ参加者は二万人に達した。警察隊は〝カルチェラタン地区〟を完全に取り囲んでから、その袋小路へ学生を追い込んだ。狭いエリアに閉じ込められた学生たちの抵抗はすさまじく、いたるところにバリケードが構築され、道路が封鎖された。バリケードは、敷石や街路樹、標識、自動車などを使い、道幅いっぱいに巨大な壁のように築かれ、警察隊の突入を許さなかった。そこへ数千本とも言われる催涙弾とガス弾が次々が打ち込まれ、捕まった学生は容赦なく叩きのめされる。逃げ込んだ一般民家や商店の中にまで催涙弾は打ち込まれ、ただの通行人や野次馬も、警官たちによってめった打ちにされた。
 二万人の暴力的な学生を相手にするにしても、警察の暴力は目にあまった。多くのパリ市民が見ていた。翌日から、世論が一変する。新聞も政府を非難し、既成の左翼政党も学生への連帯を表明した。労働組合は学生と共闘するためゼネラルストライキの指令を発する。
 学生の騒乱が、社会全体を巻き込み始めた。
 5月13日、月曜日、あらゆる企業、工場の労働者がストライキに入った。フランスの社会機能が麻痺し始める。ソルボンヌ校の閉鎖は解かれ、学生が占拠した。「大学は永久に労働者に解放される」という宣言とともに自由空間となった。中庭でジャズの演奏会が開かれ、ソルボンヌ校はふしぎな祝祭空間となる。
 ストライキの指令は24時間であったが、そのまま継続され、しかも拡大していった。5月24日金曜日には、フランスの労働者の半数にあたる一千万人がストライキに参加した。同日、三万人が参加したデモがあり、警官隊が突入し、また大暴動となる。
 このころになってやっとドゴール政権は、本気で事態収拾へむかう。
 政府と労働組合代表の話し合いがもたれ、基本賃金の大幅な引き上げなどで合意に達した。
 ドゴール大統領は、いったんパリから姿を消したあと(単身、西ドイツにいるフランス軍司令官のもとに飛び、軍の支援を取り付けた)、5月30日木曜朝、パリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置した。軍の力を背景に国民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」との演説で国民に訴えた。ドゴール支持者五十万人が「フランスをフランス人の手に!」とのスローガンを掲げ、シャンゼリゼ通りのデモ行進を挙行した。
 これで情勢が変わった。
 6月23日と30日の国民議会選挙によって、ドゴール大統領派は圧倒的な勝利を得る。学生たちの運動に関わった共産党と左翼連合は、まれにみる敗北を喫し、議席を半減させた。
 これが〝五月革命〟の概略である。

 どう見ても、革命ではない。
 政府与党は対応に追われたものの、政権は維持されている。ドゴールの退陣にさえ追い込めていない。
 それでも学生運動がきっかけとなり、全フランスを巻き込んだ騒擾は、世界を驚かせた。ドゴールがエリゼ宮から姿をくらませたときは(たったの一日であったが)学生運動が、ドゴール体制を倒した、とさえ見られたのだ。
 学生運動によって社会は変えられる、と世界中の学生運動家が勇気づけられた。(勘違いではあるが、学生が勘違いするのはいつものことである)。
 だから、これを革命と呼んだのだろう。もともと学生運動は権力奪取を目的としていない、これだけやれれば革命と呼んでいい、という宣言に聞こえる。

 五月革命の翌月、1968年6月、日本でも「神田カルチェラタン闘争」と呼ばれる運動が展開された。パリのカルチェラタンをまねて神田駿河台の中央大・明治大エリアで学生が街路にバリケードを築き、大学をふくめた解放区を作ろうとしたのだ。バリケードはあっさり機動隊によってつぶされた。カルチェラタンの模倣であり、模倣でしかない。フランスの闘争方法をすぐ取り入れたのはいいのだが、神田エリアをカルチェラタンと呼ぼうとしたあたり、あきらかに上位文化に対する憧憬が見える。フランスの同志との連帯というより、フランスに憧れて、フランスを真似してみた、という感じがする。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」という、明治以来延々と抱え続けているいじらしい憧れが滲み出ているかのようだ。
 どうも「パリの五月革命」を、日本では、政治活動ではなく「フランス文化の発露」と捉えていたのではないか、とおもえてくる。
 フランスは、学生の闘争方法さえも文化的であり、洗練され、洒脱である。つまりかっこいい。そう信じて、パリの五月革命について語っていたのだとおもう。
 たしかに、このときのフランスには、そういうかっこよさがあった。

『パリ五月革命 私論』著者の西川辰夫によると、五月革命の最初の日、5月3日にサンジェルマン大通りにいると、警官隊と対峙している学生たちの小集団がやってきた。そのとき、夕陽を正面から浴び、集団の先頭で投石をつづけているのはミニスカートの若い女性だった。
「〝五月〟という言葉を聞くと、いつも思い出す情景である」と記している。
 夕陽を浴びたミニスカートの女性が、学生集団の先頭に立ち、敷石を剥がして警官隊に向かって投げている。たしかにそんな風景は、あまり日本では見られない。とてもパリらしい。われわれのパリ幻想にぴったりと応えてくれる風景である。
 また、闘争中、そこら中に貼られたメッセージや、壁へ直接書かれたメッセージも、インパクトがあったと、みんな記録している。
「禁止することを禁止する」
「想像力が権力を握る」
「走れ同志よ、古い世界は君の後ろだ」
 爽快で、力がある。そして、洒落ている。

 たしかに60年代終わりから70年にかけての学生運動は、言葉が過剰だった。日本でもそうだったとおもう。それでいてフランスの言葉には諧謔があり、運動に参加してない者へも届く力がある。
 カルチェラタンエリアの敷石は、どんどん剥がされ、投げられ、また積み上げられてバリケードとなった。敷石を剥がすと(舗装している道路の舗装を剥ぐと)ふつう、土が露出する。パリでは、砂が露出してきた。
「敷石(パヴェ)を剥がすと、そこに砂浜が」
 そういう詩的な言葉で表現された。五月革命を記す書には、かならず引用されている言葉である。
 闘争とはいえ、やはり大学生の行動には、どこか遊びがある。切羽つまっていても、のんきなところがある。その気分を言葉であらわすのを、フランス人は得意なのだろう。

 大学闘争にはどうしてもお祭りの気配が漂う。
 彼らには時間があり、自分たちのための空間がある。
 政治闘争を掲げながらも、かれらの活動はどこか「季節外れの文化祭」のようであった。
 ソルボンヌ校を学生たちが占拠したとき、解放区となったその大学内は「奇妙な学園祭」の様を呈している。演奏会が開かれ、機関誌の即売会が開かれ、観光客さえもやってきている。これはどう考えても「お祭り」である。
 しかもいつも、彼らだけの祭りだった。

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高度経済成長が終わりを迎えた1970年代、若者文化もまた曲がり角に差し掛かろうとしていた。いまのカルチャーはどこまで行ってもこの曲がり角の先にある。日本人はこの曲がり角をいかにして迎え、そして無事に曲がることができたのか? 現代日本を...もっと読む

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コメント

sola_n67 #5月革命 #mai68 1年以上前 replyretweetfavorite

xhihimimi 1968年五月革命パリ。当時のことを全然知らないのでメモメモ。 https://t.co/F1k8Uxmrv6 約2年前 replyretweetfavorite