あのこは貴族

もし三十を過ぎても結婚できなかったら…華子は怯えを隠せない

【第5回】
「30歳までに結婚したい」と強く願っていたのに、彼氏にフラれた華子。
急に人生の岐路に立たされ、結婚への焦りで頭がいっぱいに――。
気鋭の作家・山内マリコが、アラサー女子たちの葛藤と解放を描く、渾身の長編小説。

 華子は器量よしで家柄もよいが、子供のころから親指の爪を嚙む嫌な癖がある。母に見つかるたび厳しく咎められ、本人も気にしていたが、これが大人になってもなかなか直らない。普段はほんの甘嚙みだが、酷いときは血が出るまで嚙んでしまい、ストレスの度合いによって爪はボロボロになった。どれだけ身ぎれいにしても、女性の爪が汚いと台無しであると母は言う。母の爪にマニキュアなどは塗られておらず、ヤスリできれいに丸く整えられているだけの質素な指先だった。アクセサリー類はあまり着けない人だが、左手薬指には一粒ダイヤを埋め込んだ結婚指輪が控えめに光っていた。

 思えば華子はこの母に、悩みというものを打ち明けたことがない。母の京子は華子と同じ名門私立女子校を卒業後、一度も外で働くことなく医者に嫁いだ典型的な箱入りで、そのせいか否が応でも了見は狭く、悪意のない決めつけや善意に満ちた正論ばかり口にする。だから爪を嚙むなと𠮟られ、慌てて後ろ手に隠したことはあっても、「この癖をどうにかしたいの」とは言えなかった。そもそも、華子は誰に対してもそうだ。悩みを気軽に人に打ち明けられないし、ましてや相談があるなどと言って人を誘うこともできない。小学校からの友人との仲はいまもつづいているが、楽しい女子校時代の思い出を共有しているだけで、心を打ち明け合えているかというとそうでもなく、彼女たちにすら弱い部分を見せたことはなかった。

 華子が爪を嚙む癖を相談できたのは、月二回の頻度で通っている青山のネイルサロンの、 西田燿子にしだようこさんというネイリストだけだ。西田さんは華子の爪の状態を見ると、すぐに嚙み癖のことを察してくれ、なおかつ言葉を選んで対応してくれた。

「親指だけちょっとガードしたいんで、ビジュー付けてもいい? そんなに派手にしないから」

 無難なフレンチネイルをオーダーしたが、西田さんの手にかかればぐっと洗練された印象になったし、つい口元に親指をやったときも、大粒のビジューが唇に触れるとはっと我に返って嚙まずに済み、思わぬ抑止力となった。それ以来、ネイルのデザインは西田さんにお任せしているし、秘密主義的なところのある華子にしては、気を許してあれこれと近況を話したりもしている。西田さんは三十代半ばにはとても見えないが、話してみると度量が広くて距離の取り方もちょうどよく、頼れるおねえさんという感じである。商社勤めの旦那さまと二匹のプードルとともに代々木上原のマンションに住み、このサロンのオーナーでもある。横浜にある中高一貫の私立女子校に通っていたという話を聞いてからは、よりいっそう親近感を抱くようになって、女子校あるあるのような話でよく盛り上がった。女子校出身者ならではの苦労話、社会に出て男性と接触するようになったときの驚きなど、話は尽きない。

 一月の半ば、華子が予約の時間に店に現れたときも、西田さんは目ざとくその表情に屈託を読み取って、「なにかあった?」とたずねた。

「いえいえ、全然っ。なにもないです。大丈夫です」

「噓ぉー。榛原さん素直だから、顔に出てるよ」

 西田さんは、抱きつかんばかりに華子を歓迎し、席に案内した。

 青山のヴィンテージマンションの一室。十二畳ほどの空間はどこもかしこも白でまとめられ、当たり障りのない環境音楽が流れる中、スタッフと女性客との会話があちこちで弾んでいる。スタッフは白シャツに黒いエプロンを着けているが、オーナーである西田さんだけは、胸元が大きく開いた黒いTシャツ一枚というシンプルな格好だ。手入れの行き届いた明るい髪色のせいか、細すぎる体つきのせいか、芸能人かと見紛うような垢抜けた雰囲気である。

「ちょっと元気足してあげよ」

 西田さんはひとりごとでも言うように声を弾ませながら立ち上がり、棚からレモンイエローの小瓶を持って戻ってきた。

「あ、その色はちょっと……」

「大丈夫、基本はいつものフレンチだよ。白の部分だけイエローに変えるつもり。嫌?」

「……もう少しおとなしめの黄色ってあります?」

「もっとたまご色に近いのにする?」

 華子はほっとしてうなずき、心がほぐれると、観念して打ち明けることにした。

「実はお正月に彼氏と別れちゃって……」

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あのこは貴族

山内マリコ

東京生まれの華子は、箱入り娘として何不自由なく育ったが、20代後半で彼氏に振られ、初めて人生の岐路に立たされた。焦ってお見合いを重ねた末に、イケメン弁護士「青木幸一郎」と出会う。 一方、東京で働く美紀は地方生まれ。大学時代に...もっと読む

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コメント

ntm_513 |山内マリコ @maricofff |あのこは貴族 後半部分の共感度120% https://t.co/RexhMRAFS9 2年以上前 replyretweetfavorite

maricofff cakes連載中『 正月のやんごとない展開が一段落して、日常描写からのスタートとなっております。ちなみに次回は…「親が連れてくるお見合い相手にろくなのはいないよ」です! 2年以上前 replyretweetfavorite