名古屋からスタートした芸能人生
「鶴瓶を辞めさせるな」
デビュー2年目の22歳の時。笑福亭鶴瓶は、名古屋の深夜ラジオ番組『ミッドナイト東海』の生放送中に大ゲンカをするという大問題を起こし、番組降板の危機に瀕していた。
降板を止めようとラジオ局の元に2000通を超える署名が集まった。署名運動の中心は中学生たちだった。
鶴瓶はその署名に助けられ、番組は継続。この番組とこの降板騒動は「鶴瓶」を形作るうえで大きなターニングポイントになった。
鶴瓶の芸能人生は本人が言うように「名古屋からスタートした」※1と言っても過言ではない。
デビュー2年目に東海ラジオの『ミッドナイト東海』のメインパーソナリティに抜擢されたのだ。
最初は、兄弟子である笑福亭鶴光のボルテージの高いトークを参考にしてしゃべろうとした。そうした話し方がラジオで当時ウケていたからだ。だが、『ミッドナイト東海』は3時間の生放送。それではもたない。
「若手噺家=ハイテンション」というイメージの型にハマるのも嫌だった。
何しろ、それが嫌で師匠や先輩たちに散々文句を言われてもアフロの髪型を変えなかったぐらいだ。
「こんばんは。笑福亭鶴瓶でございます」
とにかく普通のトーンのしゃべり方をするように心がけた。それこそが当時は“普通”ではなかったのだ。
しかし、当時の名古屋では大阪の人間への拒否反応が強かった。ましてやデビュー間もない無名の落語家だ。リスナーからのハガキは皆無だった。たまに届いたと思えば「アホ」とか「バーカ」と書いたものばかり。
仕方がないから、自分で自分宛てにハガキを書いて出したりもした。
なかなか認められないというイラ立ちもあったのかもしれない。
訪れたゲストにキレたこともあった。
名古屋で人気だったロックシンガーが番組に訪れた。
当時は「メディアに出ない」ことがカッコいいというような風潮があった。だから、そのゲストも「出てやっている」ような態度だった。
インタビューも噛み合わなかったため、遂に鶴瓶は激昂した。
「出ていけ、コラァ!」
「なんやとコラ!」
相手も応戦したため生放送は阿鼻叫喚。罵声が響き渡った。
リスナーの親と生放送で大ゲンカ
しかし、このケンカが降板騒ぎに繋がったわけではない。
番組終盤の15分から20分に「四畳半のコーナー」という企画があった。
いまでは考えられないがブースに直接電話をつなげ、リスナーとしゃべるコーナーだ。
ブースの外でいったんスタッフが話を聞き、生放送に問題ないとわかった相手の電話をブースにつなぐのが一般的だ。だがそうではなく、ブースの電話が鳴ったら鶴瓶が直接取る。だから、どんな相手からかかってくるかまったく予想がつかないのだ。
実際、ハガキ同様、「アホ」とか「バカ」などと言いたいだけの人からかかってくることも少なくなく、そのたびにケンカもしていた。
そんな中、夏休み明けの1週目にひとりの中学生から電話がかかってきた。
「本当は地元の中学にずっと行きたかったのに、9月の中ごろから高知の全寮制の学校に行かされる」
そんな真剣な悩みを吐露された。
「なんで?」
鶴瓶もまた真剣に耳を傾ける。聞けば医者である父親が、息子を医者にするために嫌がる息子の言うことを聞かずに全寮制の学校に入れるのだという。息子は医者にはなりたくもなかった。
「それやったら……」
鶴瓶が言いかけると、中学生は慌てた様子で「あッ、ゴメン、切る」と言う。
「なんで切るねん、お前からかけてきたやんか」
「親父がいま部屋に入ってきたから……」
思わぬ展開にさすがの鶴瓶も尻込みをしたが、ここで頼りないパーソナリティに思われるのは嫌だった。
「だったら、お父さんと代われ」
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