第一章 東京(とりわけその中心の、とある階層)
タクシーは国会議事堂前を通過し日比谷公園をかすめ、ちょうど内幸町の信号にさしかかるところだった。街の空気は清められたようにすきっと乾いて、
「田舎者がみんな
運転手は道が空いているのがうれしいのか、さっきからスピードは出すわやたら話しかけてくるわで、華子は少々困惑している。無視するのも気が引けるが、かと言ってこの手の話にどうリアクションすればいいかもよくわからない。誰とも話したくないときに限っておしゃべり好きな運転手に当たってしまうものだと、華子は小さくため息をついた。
まごついているうちに運転手が、
「かくいう私も田舎の出なんですけどね」
と自分につっこみを入れるので、華子は苦笑いを浮かべた。
いかにも人のよさそうなその運転手は、滔々と話をつづける。
「東京出て来て五十年近くになるしもう親も墓もこっちに引き取っちゃって、何年も帰ってないね。とにかく雪が酷くてねぇ、あっちの方は。参っちゃって。実家はもう何年も空き家だね。処分に困るのなんの」
しきりに田舎の話をされるが、華子にはまったくピンとこない。彼女は今年二十七歳になるが、東京以外の地理なんてさっぱりわからないし、とくに興味もなかった。大学を出てからは母親の温泉めぐりにつき合って多少は地方へ足をのばすようになったものの、新幹線で通り過ぎる町はどこも似たり寄ったりだから、どうしても記憶が混同してしまう。天気予報で全国の地図が映っても、生まれてこのかた東京にしか住んだことのない華子の目には、入ってこないのだった。
「お客さん東京の人だね」
運転手はなにかを直感したらしくピシャリと言うと、
「正月から帝国ホテルなんてうらやましいねぇ。私なんかしょっちゅう来るけど、中には入ったこともない。いつも人を乗せて来るばっかりでね、ハハハ」
自虐的に笑いながら、バックミラー越しにちらりと詮索するような視線を投げた。華子はかすかに身構えたが、運良く信号にはつかまらず帝国ホテルの車寄せに滑り込んだので、話が膨らむ間もなくタイムアウトとなって、車を降りたのだった。
呼吸を整え、足を踏み入れた帝国ホテルのロビーは活気に満ちていた。吹き抜けの天井、シャンデリアの下には正月らしい松飾りがボリュームたっぷりに活けられ、人々がひっきりなしに往来している。一段低くなったラウンジバーには客が溢れ、さんざめく囁き声と食器がカチャカチャ触れ合う音が混ざり合って騒がしいくらいのにぎわいである。そこかしこがチョコレート色の内装はどこか懐かしく、ラグジュアリーを謳った昨今の外資系ホテルにはない落ち着きがあった。
華子は地下の連絡通路を通り、目的の店の暖簾をくぐる。予約している榛原ですと名乗ると、着物姿の仲居はお待ちしておりましたとお辞儀し、にこやかに年始の挨拶を述べながら手際よくコートを預かって「こちらへどうぞ」と手をのべた。個室に通されると先に到着していた祖母が、一人ぽつんと椅子に腰掛けている。九つの椅子が並んだテーブル席の上座に腰を下ろしている祖母は、華子を見るなり顔をパァッと輝かせ、
「あらあら華ちゃん」
こっちにおいでとばかり、真横の椅子を重たそうに引いた。
促されるままとなりに腰を下ろし、華子があけましておめでとうございますと仰々しく頭を下げるや、祖母はハンドバッグから鳩居堂ののし袋をとりだす。
「華ちゃん、これ、お年玉」
祖母は封筒をテーブルにスッと滑らすなり早く仕舞えという手振りをするので、
「おばあちゃまありがとう」
華子はお礼だけ言うと中身の確認もせず、自分のバッグにそっと忍ばせた。封筒を持ったとき、ちょっと厚みのある感触がしたので祖母の顔を見ると、
「華ちゃん、お母さんから聞いたわよ、会社辞めたんですって?」と声を弾ませている。
「うん。十一月にね。退職届出したの……」
「そう、それはいいことよ」
華子には早く結婚して家庭に入ってほしいらしく、女の子があまり社会で揉まれるとすれた感じになるから嫌だわと、祖母はかねがね言っていた。華子が父親のコネで大手化粧品メーカーに就職したときも、秘書課に配属されたと知るや渋々といった調子で認めつつ、仕事はほどほどにしておきなさいという忠言を忘れなかった。
華子は三姉妹だが、上の二人とは年の離れた末っ子で、顔立ちも愛くるしく素直な性格もあいまって、祖母のお気に入りだった。セミロングの髪は濃すぎるほど濃い黒で、染めたこともパーマをかけたこともなく、ピアスの穴も開いていない。ファッションも一貫して清楚でおとなしい印象、そういうところも祖母には好ましいらしい。祖母は華子の着ているFOXEYのベージュのワンピースを褒め、華子も祖母のコーディネートを褒め返した。
今年八十四になる祖母は、
「いまはもうこういう上等な生地なんてないんでしょう? なんでもペラッペラの安物ばかりでねぇ」と祖母。
華子はとくに同調も反論もせず、ただにこにこと微笑みを浮かべてうなずいている。
そこに
「あ、なんだぁ~やっぱみんな遅れてる」
無神経な調子で言い、セリーヌのラゲージを椅子の上にぽんと置くと、麻友子は祖母に向き直って、「あけましておめでとうございます」と慇懃に頭を下げた。この何年かは毎年のように正月を海外で過ごしていた麻友子が、めずらしく食事会に姿を見せたことに、祖母は驚いた調子で茶目っ気を滲ませながら、
「あら、お久しぶりですこと」
ほんのりと嫌味を口にする。麻友子はきまり悪そうに華子のとなりに腰を下ろした。
仕事ばかりして結婚せず、三十を過ぎてやっと嫁いだと思ったら、一年ともたずに離婚したことが、祖母はいまだに気に食わないらしい。そもそも、小学校から大学までエスカレーター式の女子校に行かせたのに、わざわざ受験して聖マリアンナ医科大に進み、女だてらに医師免許を取ったときから、祖母は麻友子のことを快く思っていない。麻友子が子供のころは、利発な彼女のことをずいぶん寵愛していたらしいが。
麻友子とは十も年が離れているので、華子はこの二人の関係がこじれたいきさつはいまだによく知らなかった。それにこの姉には、華子もちょっと苦手意識がある。頭の回転が速くせっかちで、口が達者な上まくし立てるように喋るので、おっとりタイプの華子は相槌を打つだけで精一杯。一緒に住んだ記憶はほとんどなく、この姉とどうにか対等に口を利けるようになったのも、華子が外で働くようになったここ数年のことだった。
「華子のそのネックレス可愛い。あ、ブレスレットもお揃いなんだ。どこで買ったの?」
「ボン・マルシェ」
「パリの?」
「そう。去年フランスに行ったときに買ったんだけど、青山にもショップあるよ、レネレイドっていうとこ」
おとぎ話の世界から抜け出してきたように繊細で愛らしいデザインにしげしげ目を凝らしながら、
「可愛いよそれ、華子に似合ってる」
と褒めてくれたが、おそらく子供っぽいという意味なのだろう。あなたの年代のファッションには興味ないわと言わんばかりに、「わたしも欲しい」とはおくびにも出さず、それから思い出したように「華子っていまいくつだっけ」とたずねた。
「二十六、今年誕生日が来たら、七」
「もう七なの!? やだぁ、あたしも年取るはずじゃない。へぇーそっかぁ、二十七かぁ。二十代のうちにそういうの、いっぱいつけておきなね」
麻友子は言うことにいちいち含みがある。麻友子がつけている一粒ダイヤのピアスや、手首でしゃらしゃら揺れるゴールドの華奢なブレスレットに比べると、華子が身につけているアクセサリーはちゃちなおもちゃのようなものだろう。
次回「どんなところへお嫁に行きたいんだ?」は9/30更新予定
イラスト:黒坂麻衣
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