羽生善治王位に木村一基八段が挑戦する王位戦七番勝負は、羽生王位2勝、木村八段3勝で、第6局を迎えている。木村勝ちであれば、悲願の初タイトル奪取。ネット中継で、あるいは対局場の鶴巻温泉「元湯 陣屋」の大盤解説で、多くのファンが対局のゆくえを見守ることになるだろう。
そんな最新のトピックで、見る将棋ファンが熱くなっているかたわらで、本稿では昔の話をしたい。
棋士で木村といえば、現在は木村一基八段のことだが、昭和の前半は、木村義雄名人のことだった。
木村義雄(以下、木村)は、1912年、東京の本所(現在の墨田区)に生まれた。生粋の、江戸っ子である。現在、その生誕の地には、案内板が立てられている。
木村は下町の庶民の家庭の出身だった。その暮らしは、裕福というには、ほど遠い。他の大名人と同様、木村もまた幼少時に将棋を覚え、すぐに強くなったところは同じである。それに加えて、子供の時から、ハングリー精神にあふれていた。
木村を一言で形容するならば、「勝負師」である。文士の坂口安吾は木村の対局の観戦記を書いた際、そのままズバリ、「勝負師」というタイトルにした。同時代の指し手の中で、棋力が図抜けて高かったのは、言うまでもない。その上で、あふれんばかりの闘志を隠すことなく、徹底的に勝ちにこだわり、あらゆる手段を講じようとした。
木村が幸運だったのは、その指し盛りのうちに、実力制名人戦が始まったことである。第1期名人戦は、自他ともに認める実力日本一の木村が優勝。1938年、名人の地位に就いた。戦前の木村は「不敗将軍」と呼ばれ、横綱の双葉山と並び称される存在でもあった。
木村はまず何よりも勝負師だったが、やはり江戸っ子であり、粋な人だったという。芹沢博文(故人、九段)は修行時代、木村の鞄持ちをしていたことがある。その際に見た木村の姿を、後によく語っていたという。河口俊彦(故人、八段)の文章から引いてみたい。
>(前略、木村は)うな重が出されると、蓋を取って茶を注ぎ蓋をする。ややあって蓋を取り、うなぎをポイと捨て、茶漬けにお新香をおかずに、さらさらと食べる。それが通の食べ方で、木村はそうしていたとか。うなぎをポイと捨てるところがいい、と芹沢はそこをくり返した。 (河口俊彦「評伝 木村義雄」『将棋世界』2014年1月号)
うな重なのに、うなぎを食べずに捨ててしまう。通な江戸っ子のふるまいとは、そうしたものなのか。野暮な田舎者の筆者などは、うならざるをえないようなエピソードである。
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