「すきま産業」でいられなかったがゆえの失敗——江副浩正(2013年2月8日没、76歳)
ノーベル賞作家・大江健三郎のデビュー作は、東京大学在学中の1957年に東大五月祭賞を受賞した短編「奇妙な仕事」だ。同作の発表された『東京大学新聞』はこのとき、大江に賞金として、それまでの倍にあたる2万円を出している。一時は経営破綻にまで陥った東大新聞が持ち直し、賞金をはずむことができたのは、当時同新聞の広告業務を担当していた江副浩正の力によるところ大であったという(佐野眞一『あぶく銭師たちよ!』)。
学生新聞といえば編集志望で入ってくる学生がほとんどというなかにあって、江副はペイがいいとの理由で当初から広告の仕事を選んだ。このとき、ある東大新聞OBから「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」と言われる(江副『かもめが翔んだ日』)。この言葉が、のちに江副がリクルートを設立する発端となった。
それまで東大新聞の広告といえば、書籍広告か、大学周辺の喫茶店や雀荘などの広告がぽつぽつ載っていた程度だった。それに対し江副は、求人広告を出すことを思い立つ。最初に載せたのは、ある商社の企業説明会の告知広告だった。これが反響を呼び、ほかの会社からも企業説明会や求人の広告を出したいとの申し込みがあいつぐ。そのおかげで新聞の広告収入は増加、江副自身の月収も、大学卒の初任給が1万円ちょっとだった時代に、3万~4万円、就職シーズンともなれば20万円近くに達したという。
1960年3月、卒業と同時に江副は友人と2人で「大学新聞広告社」を設立、東大だけでなく全国の大学新聞向けの広告を扱うようになる。オフィスは、西新橋の第二森ビルの屋上にある2坪半の物置小屋のようなスペース。これは、江副の東大教育学部の1年先輩で、当時森ビル専務となっていた森稔が貸してくれたものだった。
設立2年目の1961年、大学新聞広告社は企業情報を集めた『企業への招待』という冊子を準備、翌年に発行する。そのお手本はアメリカの『キャリア』という就職情報ガイドブックであったが、同誌には面接のノウハウなど一般記事も載っていたのに対し、『企業への招待』は求人広告だけに絞った。広告だけの出版物というのは、それまでの出版の概念を打ち破るものであったといってよい。
『企業への招待』は、掲載広告が予定より下回ったため初年度は赤字で、江副は翌年も出すかどうか迷った。だが学生たちには好評だったことから、次はきっと事業として成功するだろうと、発行継続に踏み切る。果たして、翌年度は掲載企業が倍増し、大きな利益をあげた。
この冊子はのちに『リクルートブック』と改題され、リクルート初期の主力商品となった。この時代、日本経済の飛躍的な成長に対し、人口の伸びが追いつかず、労働力は慢性的に不足していた。企業側から学生に頭を下げてでも入社してほしいという、そんなニーズに応え、リクルートもまた急成長をとげていく(この間、社名は1963年に「日本リクルートセンター」、1984年に「リクルート」と変更され、さらに下って2012年10月にはグループ再編にともない、「リクルートホールディングス」となっている)。
1970年代のオイルショックでは、人手不足から一転して就職難へと転じた。しかしリクルートは、不況になったら失業者が増え、再就職、中途採用が多くなるとの逆転の発想から、求職者向けに『就職情報』を創刊する。同誌の内容はその後、『とらばーゆ』『ビーイング』に引き継がれる。とくに女性向けの求人情報誌として生まれた前者は、女性の社会進出をうながすうえで大きく貢献した。
さて、江副を語るうえで避けることができないのが、1988年に発覚したリクルート事件である。ここで問題視されたのは、江副が政・官・財の要人たちに、リクルートの関連会社の未公開株を譲渡したことだった。この事件により、江副は翌1989年2月に逮捕、起訴され、13年以上にわたる長期の裁判の末、2003年3月に有罪判決(懲役3年・執行猶予5年)の判決がくだった。
リクルート事件とは何だったのか? 本人や関係者の証言を見てゆくと、事件は、江副がリクルートを“新興企業”から脱却させ、財界や政界とのつながりを深めるため、どこか無理を重ねた結果、起こったのではないか——と、そんな気がしてならない。
そもそもリクルートは、既存の出版業や広告業の枠に収まらない、しいて定義づけるなら「情報産業」としかいいようのない企業だったはずだ。しかし江副はその定義をよしとしなかった。情報誌事業をあくまで広告業ととらえていた彼は、1985年前後には、もはや広告業は成熟領域に入ったと判断、次の過程へと進もうとしていた。ただ、その方向は、時代に逆行するかのようなものだった。この頃の江副の動向を一社員として間近で見ていた藤原和博(のちの杉並区立和田中学校の校長)は、“逆行”の一例として、関連会社であるリクルートコスモス(現・コスモスイニシア)の経営を通じて、不動産業に急速にシフトしていったことをあげる(『リクルートという奇跡』)。
たしかに不動産業は、情報誌事業よりもずっと速いスピードで、巨額の利益を出すことができた。江副はその魅力に酔っていたというのだ。だが、ひとたび需要予測を誤って、過剰に土地を仕入れ、マンションなどを建築してしまうと、全体の市場が縮んでいく局面ではドツボにハマってしまう。実際、バブル崩壊後、不動産と金融部門の経営は悪化、巨額の負債を抱えたリクルートは、ダイエーの傘下に入ることになってしまう(のちリクルートの回復とは逆に、経営悪化したダイエーが株を手放すことで、ふたたび独立を果たすのだが)。
このように、大きなリスクを抱えてでも、江副が不動産業に走ったのはなぜだろうか。《江副さんは、そのスピードで[引用者注——自分で土地を仕入れ、そこに建築費を投資し、それを市場に供給するという意味合いで不動産の]メーカーになり、一流と認められたかったのだ》と、藤原は推測する(前掲書)。そしてどうやらそこには、既存の財界人に対する江副の言い知れぬコンプレックスがあったらしい。実際、財界人の集まりで、江副には「どこの馬の骨かわからない男」との評判がつきまとったという。
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