棋士とメシ

​文豪と老名人と銀座のあんパン その2

九十を過ぎて亡くなるまで、勝負師としての気概を持っていた、将棋の老名人の小野五平。しかし、文豪の娘が目にした名人の姿は、意外に小粋なものでした。


(銀座・木村屋のあんパン)

 小説『五重塔』などで知られる幸田露伴(こうだ・ろはん、1867-1947)は、明治のはじめから、第二次世界大戦の終わりまでを生きた人である。その生没年を見れば、将棋界では13世名人の関根金次郎(1868-1946)や、そのライバルである阪田三吉(1870-1946)と、ほぼ同時代の人だとわかる。

 露伴は文豪らしく、「将棋雑話」と「将棋雑考」という、優れた論考を残している。

 そして、それ以前に熱烈な、指す将棋ファンだった。関根金次郎は自叙伝の『棋道半世紀』にこう記している。

>わたしたちの団体から、幸田露伴さんには四段を、菊池寛さんには三段を、佐々木茂索さんには初段を、それぞれおくったと記憶している。

 有名人だから、多少は甘く認定してもらったところもあるだろう。それでも、段位の価値が今以上に重かった戦前の棋力四段は、歴代の文壇の指し手の中でも、屈指の強豪と見てよい。1933年には、次代の名人と目されていた木村義雄八段を自宅に呼んで、角落で稽古をつけてもらっている。

 露伴は自身の住まいを「蝸牛庵」と称した。かたつむりのように、よく住まいを変える、という意味だ。その中で、向島には、長く住んでいた。

 岩波書店の小林勇は「蝸牛庵訪問記」で、露伴が将棋の成績を記録する「首斬帖」のことを記している。ネット将棋がない時代、家を訪れてくれる将棋の相手は、何をおいてもありがたい、はずである。露伴先生は、そのありがたい来客を斬り捨てて、「首斬帖」に書き込み悦に入っている。文豪の子供っぽいところが垣間見えて、微笑ましい。

 露伴には、文(あや、1904-1990)という娘がいた。文も後に、文筆家となる。

 文がまだ幼い子供だった頃のこと。文は露伴の晩酌の最中に、将棋の一人稽古に付き合わされた。そのあたりの様子は、随筆「ずぼんぼ」に記されている。

>将棋盤は膳とならべられて置かれ一人将棋がはじまり、私には小ぎたない定跡の本が授けられる。序盤は私が読んで行くが、中盤に入つてそろ/\荒れてくると、父の方が何々の歩だらうとか何々の金だらうなどと当てにかゝる。長々と思案してものも云はない。折角の台処の心づくしも無にして、さかなも冷えるにまかせ、たゞ盃ばかりをふくむ。(幸田文「ずぼんぼ」)

 将棋好きの父が、将棋のルールもわらかない娘をアシスタントにして、定跡を研究している。娘が手にさせられているのは、幕末に「棋聖」と称された天野宗歩が遺した、名著『将棋精選』あたりだろうか。娘は将棋のルールもわからないまま、その棋譜を読み上げさせられる。序盤を過ぎて中盤となり、駒がぶつかってくると、父は肴の存在も忘れて、酒だけを飲みながら、次の一手の思案にふける。父はそれだけ、将棋が好きなのだ。しかし、将棋に興味のない娘からすれば、たまったものではないだろう。

>「盤の裏にある刻み目は、勝負に対して無礼だつた者を討つたときに首を据ゑる座だ」と、いつの間にか小耳にして恐れてゐたから、将棋そのものを敬遠したいところへ持つて来て、父の陰気な鋭い顔に対(むか)ひあつて、幼くて、わびしいなどといふことを知るよしも無いが、いま思つてもうなだれるやうな空気を感じる。(幸田文「ずぼんぼ」)

 ああ、これではいけない……。女性に将棋に興味を持ってもらえるよう、関係者が腐心している現代の目で見れば、苦笑させられるような場面である。

 将棋盤の裏には、指した際に駒音がよく響くように、くぼみが彫られている。そして、対局者に助言をするなど、マナー違反をしたものは、首を斬られて、そのくぼみに据えられる、という話が派生した。幼い女の子が聞かされて、愉快になる話ではないだろう。

 露伴は、子供とよく遊ぶ父だった。たとえば、トランプなどは、にぎやかに親子で遊んでいた。しかし将棋に関しては……。これでは娘を、将棋から遠ざけてしまうことになるだろう。

>十四五のころ、たしなみ・楽しみのために「馬子(こま)道くらゐは明けておかなくては」と教へてくれようとしたが、勇を鼓してはつきりいやだとことわつた。変な顔をしたが父は強ひなかつた。(幸田文「ずぼんぼ」)

 幸田文ほどの才女が、もし将棋を覚えていれば、どうなっていただろうか。もしかしたら、かなりの指し手になったかもしれない。子供には、駒の動かし方ぐらいは覚えてもらいたい。そう思うのは、将棋好きの親に共通する心理である。しかし、多くの場合は、特にそれが女の子であれば、簡単にはいかない。露伴は、娘がいやだといえば、それ以上無理強いすることはなかった。

 戦後には、将棋を指す女性が少しずつ増えていき、強豪も現れるようになった。女流棋士たちの回想を聞くと、子供の頃に、将棋好きの父から、なかば無理やり覚えさせられた、という例が少なくない。「だから子供の頃は、ちっとも将棋が好きではなかった」という話も、しばしば耳にした。時代はさらに進んで、いまは父が幼い娘に、そういうスパルタ教育をすることも、ほとんどないのだろう。

 露伴は、12世名人の小野五平に稽古をつけてもらっていた。露伴が小野宅を訪ねることもあれば、逆に小野が露伴宅を訪れることもあったという。そしてある時、もう九十にもなる小野が、不意に、若い女中と一緒に、露伴が住む、向島の蝸牛庵にやってきた。

>(小野五平は)若い女中さんをお供にして、それに何やらばか大きな包みを持たせてゐる。(中略)包みからは甘い匂ひがして、見ずとも中みがパンであることがわかる。とすれば、これはたいへんな量のパンである。先生はにこ/\して私のはう(方)へ向きなほつた。 「これは某店の餡パンです。餡パンをこんなにたくさんはばか/\しいことですが、老人の気もちですから、まあお笑ひになつてお納めください。お人ずくな(少な)の処で召しあがりきれますまいから、ご近処のお子さんがたへお分けください」と云ふ。(幸田文「包む」)

 どうして小野五平は、山ほどの餡パンを携えてきたのか。それは、こういうことだった。

 露伴宅を訪れる前、小野は銀座で手土産を用意しようとした。そこで女中に、和菓子の老舗を指差し、何か買ってくるように言って、財布を渡した。女中の方は、まだ若く、世慣れていない。女中が入っていったのは、和菓子の老舗、ではなく、その隣りのパン屋だった。女中は財布の中の金をほとんど使って、包みいっぱいの餡パンを買ってきてしまった、というわけだ。

 小野は続けて、文に向かってこう言う。

>「—なんともまあ、この齢になつて私がかういふものを人様のお宅へ持参いたすのは少し困りましたが、考へれば別に害になるものでもありませんし、このゐなか娘がいちづにさう思ひこんで包ませたものなので、—またあそこの小僧も商売とは云へ、よくもかう手際に包んだものです。思ひやうによつてはおもしろいとも云へます。小言を云ふのも野暮なことです。若い女が包ませたといふのは、いゝことばぢやござんせんか。そんなわけで、まあ気持ちばかりお眼にかけます。」

 この話だけを読めば、晩年の小野は温和で、小粋なおじいさんだ。しかしそれは、将棋界のライバルたちには、決して見せることのない姿だったのだろう。

 小野の晩年は、寂しいものだったという。それは、自分の思う通りに生きた、古今の勝負師の、定跡のようなものだ。死ぬまで勝負師であろうとした小野にとってみれば、百も承知のことだろう。

 小野と露伴が、あんパンを片手に将棋を指したかどうかまでは、文の随筆には記されてはいない。小野が持ってきた山ほどのあんパンも、近所の子供たちに配られてしまうと、あっという間になくなってしまった。

 銀座の「某店の餡パン」とは、おそらくは、木村屋のあんパンではないか。

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棋士とメシ

松本博文

あの大一番を支えた食は何だったのか―― 現在における将棋対局のネット中継の基礎をつくり、食事の中継の提案も行った松本博文氏がつづる、勝負師メシのエピソード。

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fwd_yutaro あんぱん食べたくなった(単純) 3年以上前 replyretweetfavorite

s_kjman 文豪と老名人と銀座のあんパン その2|松本博文 @mtmtlife | 3年以上前 replyretweetfavorite

bus_gasbusgas 文豪と老名人と銀座のあんパン その2|松本博文 @mtmtlife | 3年以上前 replyretweetfavorite