(木村屋のあんパン)
2005年の竜王戦の対局で、挑戦者の木村一基七段(現在は八段)は、昼食の注文をせず、差し入れられたあんパンを食べている。タイトル戦では、珍しいことだろう。とはいえ、将棋の対局であんパン、というチョイスは、それほど珍しくない。あんパンを用意して、夜の戦いに臨む、ということもよくある。
木村一基とはおそらくは関係がないが、明治のはじめ、日本で初めてあんパンを売り出したのは、木村屋という店である。開発したのは、木村屋の初代当主である安兵衛や、二代目の英三郎。1875(明治8)年4月4日には、明治天皇にあんパンを献上するという栄誉に浴している。
(銀座の木村屋)
あんパンは、文明開化を象徴する食べ物だった。一方で、将棋指しにとっては、明治とは、どういう時代であったか。
江戸時代、将棋を生業とし、歴代の名人を輩出してきた、大橋本家、大橋分家、伊藤家は、幕府の庇護を受けていた。しかし、明治に入り、幕府がなくなってからは、その後ろ盾を失う。高段者たちはその分、苦難の道を歩まざるを得なくなった。
1879(明治12)年、長い間、空位にあった名人位に就いたのは、伊藤宗印(そういん)という人である。この人は、伊藤家の当主としては、八代目にあたるため、八代宗印と呼ばれる。
将棋の家は、存在した。ただし、将棋の強い親から自然に、将棋の強い子供が生まれる、というわけではない。そうしたケースは、むしろまれだ。将棋が弱い子弟が家を継いでは悲惨なことになる。自分の子供に実力がなれば、当主は若く有望な指し手を見出し、家を継がせた。
八代宗印は、幼名を上野房次郎(うえの・ふさじろう)と言った。歴代の名人同様、幼少時から強かく、その実力を買われて、名門伊藤家を継いだ。そして、伊藤家の当主として「幕末の棋聖」と称えられる天野宗歩(あまの・そうほ)らと対戦し、歴史的な棋譜を残している。
八代宗印の実力は、誰もが認めるところだった。また、多くの人から慕われる穏やかな性格であり、棋界の中心人物として、新しい明治の世の中で、盤外では悪戦苦闘しながらも、精力的に働いた。門下には、小菅剣之助名誉名人や、関根金次郎13世名人がいる。その功績に比例するかのように、東京の護国寺には、よく目立つところに、主に小菅の力によって、宗印の大きな顕彰碑が建てられている。
将棋界の偉大なる先達である宗印先生の話をしていけば、キリがなく、それはまた、別の機会としたい。今回は、宗印の次の名人である、小野五平(おの・ごへい)の話である。
1世名人の初代大橋宗桂から、11世・伊藤宗印、12世・小野五平を経て、19世の羽生善治まで、永世名人は19人いる。その中には、人気がある名人もいれば、それほどでもない名人もいるだろう。
もし現在、歴代名人の人気投票をすれば、おそらくは羽生善治が、ダントツのトップとなるだろう。その実力は史上最強であり、棋風には華があり、人格もパーフェクトだ。
一方で小野五平は、人気がない名人と言って、差し支えないだろう。同じ時代を生きた人々からの評判も、あまりよくなかった。小野の肖像写真が残されているが、どうにも気難しそうなおじいさんに見える。また、棋界全体の発展にもあまり興味がなかったのか、後進のためを思っての活動にも、消極的だった。
小野にはもちろん、実力日本一を称してもおかしくはない時代もあっただろう。しかし、小野の評判がよくないのは、指し盛りを過ぎ、老いて名人位に就いた後、その地位に長居をし過ぎた点にある。実力で勝る関根金次郎ら、後進に名人位を譲らず、九十過ぎまで、長生きした。
もっともそれは、小野だけの責任ではない。昭和の時代に入って実力制名人戦が始まるまでは、ごくわずかな例外をのぞけば、一度名人になってしまえば、死ぬまで名人位に居続けるのは、当然のことだった。
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