棋士とメシ

好漢、木村一基の挑戦 その3

観る将棋ファンに絶大な人気を誇る、木村一基八段。初めてタイトル戦に登場したのは、2005年の竜王戦七番勝負でした。


(2005年、竜王戦七番勝負を戦う木村一基)

 羽生善治王位に木村一基八段が挑む、王位戦七番勝負が佳境を迎えている。羽生2勝、木村2勝のあと、第5局は8月30日、31日、徳島市の渭水苑でおこなわれる。

 中継によれば、1日目の昼食は、羽生は親子丼、木村は鉄火丼。親子丼は、徳島の名物である、阿波尾鶏が使われているという。

 2年前の王位戦七番勝負はやはり、羽生王位に木村八段が挑むという構図だった。その際、渭水苑では、第2局がおこなわれた。1日目の昼食は、羽生は冷やしうどん、木村は親子丼。2日目は、両者ともに松花堂弁当だった。過去のデータを参考にして、2日目の昼食の予想は無難に、松花堂弁当としておこう。

 ところで、Twitter上の、観る将棋ファンの熱いツイートを見ていると、世界の9割は、木村ファンなのではないか、と思われる。そして同時に、世界の9割は依然として、羽生ファンのようにも見える。木村に悲願の初タイトルを取ってもらいたいと願う一方で、この先もまだまだ、無敵の羽生時代を見続けたい、と思う人も多いのだろう。

 2001年、当時五段だった木村は、竜王戦の挑戦者決定戦三番勝負に進出した。相手は棋界の覇者、羽生善治である。第1局、終盤は羽生必勝となった。羽生玉は王手をかけられているが、安全なところへ逃げてしまえば、それまでだ。もしその盤面を見せられ、「正しい方に逃げてください」、という問題を出されれば、少し腕に覚えのあるアマチュアであれば、まず間違えないだろう。

 しかしそこで、将棋史に残る大事件が起こった。羽生は唯一、ここだけはダメ、1手で詰んでしまう、という場所に玉を逃げてしまった。羽生は将棋史上、あるいは人類史上、もっともヒューマンエラーから遠い存在の一人である。その羽生にして、これだけの間違いをおかす。人間はいつかはどこかで、必ずミスをする。盤上では、何でも起こりうる。その鉄則は、史上最強の羽生でも1手詰の頓死を見落とす、という一事をもって示すことができそうだ。

 木村は大きな一番を拾った。もし、羽生の生涯最悪の大落手を、木村のツキと見なすのであれば、続く対局も、木村の勝ちとなって不思議ではない。棋史でそうした例は、数え切れないほどある。木村が藤井猛竜王への挑戦権を得て、その勢いで竜王位を獲得する。そういう可能性は、高かったはずである。

 ところが、史上最強の羽生は、ここからがあきれるほどに強い。どれだけの強者であっても、必ずミスをする。重要なのは、その直後だ。強者はそこで踏みとどまって、崩れない。

 続く第2局では千日手指し直しの対局を制し、第3局もまた、羽生の勝ち。藤井竜王への挑戦権を得て、4勝1敗で、竜王位に復位した。

 2005年、木村は再び、竜王戦の挑戦者決定戦に進出した。対戦するのは、同い年の三浦弘行八段である。木村はこのとき、七段。昇級、昇段のペースでは、常に三浦が先行していた。1996年、羽生善治の七冠独占を崩す形で、棋聖位を獲得したのも、三浦である。

 三番勝負の結果は、木村の勝ちだった。竜王挑戦権を獲得した一局、木村の胸には、万感があふれたのだろう。感想戦も終わった後、一人盤の前に残って、涙を流していたという。

 そうして迎えたのが、新しい時代の強者である、渡辺明竜王との七番勝負である。筆者はこの七番勝負の中継を担当した。どの対局も思い出は尽きないが、ここでは第1局を振り返ってみたい。対局場は、福島県会津若松市の東山温泉・今昔亭だった。

 この対局は、渡辺が後手番で一手損角換わりを初めて指した、記念すべき一局だった。午前のおやつは、渡辺はアイスコーヒー。木村は和菓子とホットコーヒー。

 写真は、NHK衛星放送の中継で、解説と聞き手を務めた、山崎隆之六段(現八段)と、中倉宏美女流初段(現二段)。

 手元にある包みは、おそらくお菓子であろう。

 タイトル戦の控え室にはよく、たくさんのお菓子が並んでいる。旅館やホテル、運営者側が用意したり、控え室を訪れるゲストが差し入れたり、近所を散策した関係者がお土産物を買ってきたりで、お菓子好きには、パラダイスのような空間となる。

>(24手目)11時40分前、この手を指した後、控え室に渡辺登場。「お菓子よかったら持っていってください」(藤井九段)。渡辺はブログのケーキの写真を見て「嫁が見てたら怒られますね。また太るって」と苦笑。

 木村が44手目を指し、渡辺が45手目を封じて、1日目が終了。

>控え室に引き上げてきた木村七段は「いやあもう、何とかの考え休むに似たりで、何考えてるかわからなくなっちゃった」と苦笑。

 そう言って、関係者をなごませるのが木村流である。

 当時の写真を見返してみると、夜の控え室では、木村が立会人の藤井九段と碁を打っている。カメラを向けると、こうである。

 竜王戦第1局2日目。昼食は、渡辺はカツ丼。一方の木村は、注文なし。

>木村にとってはいつものスタイルであるが、竜王戦七番勝負において昼食が頼まれなかったのは初めてのようだ。

 と、特に記してある。木村は、差し入れられたあんパンを食べていたようだ。

 将棋会館での対局では、木村は食事を注文しないことが多い。当時はよく、「梅のどあめ」とか、「箱ティッシュ」という注文をしていた。

「『木村はよくティッシュを頼むけれど、木村はティッシュを食べているのか? 木村はヤギなのか』って言われるんですよ」

 木村は、そう言って笑っていた。

>(61手目)15時のおやつは、渡辺はホットコーヒー。昨日注文したケーキは今日はなし。木村はホットコーヒーと、宿の方が木村のあんこ好きを聞いて用意した薄皮饅頭。


(福島名物、薄皮まんじゅう)

 ああ、これは・・・。

 将棋は強い。性格も素晴らしい。解説が超絶に上手い。よってファンからの人気も絶大。そんな木村の数少ない弱点(?)は、髪の毛が少し、薄いところである。木村と親しい棋士たちは遠慮なく、そんな点をからかったりする。ネット上では木村と、薄皮まんじゅうに関しての、大喜利が始まる。伝える側としては、素知らぬふりをして、淡々と情報を掲載するよりない。

 竜王戦七番勝負では、2日目の夕食休憩はない。そのまま終局まで指し続けられる。対局は、木村が優勢のまま、終盤戦に入った。そこで木村の側に、わずかにミスが出た。形勢は混沌としてきた。両者の残り時間は10分を切った。そこで事件が起きる。

>(110手目△3六馬)渡辺の着手が乱れ、2、3筋の駒が大きくずれた。

 後手の渡辺があわて気味に着手した際、和服の袖に駒があたり、自玉周辺が乱れた。渡辺はあわてて、駒を元の位置に戻す。この時の渡辺は、よほど気が動転していたのだろう。戻した駒が、間違ったところに置かれている。それに渡辺は気づいていない。

 ほどなく木村は、渡辺側の駒の配置がおかしいことに気づいた。手番は木村である。木村はその時、渡辺の顔を見た。緊迫した終盤戦。渡辺は盤に目を向け、必死に読んでいる。

 もしこの時、木村が次の手を指していれば、どうなっていたか。間違えて駒を戻した渡辺の側が、負けになってしまうのか。あるいは負けにならずとも、何らかのペナルティが課されるのか。

 前例は、ない。ルールにも記されていない。立会人や運営側は、判断に苦しむことになるだろう。どのような裁定が下されても、議論は起こりそうだ。これは日本の将棋界の特徴でもあろうが、よくもわるくも、ルールに記されていない多くの部分は、対局者の良識に任されている。

 木村は、渡辺に声をかけた。

「違うよ」

 と。秒読みの終盤戦である。相手から不意に声をかけられることは、まずない。渡辺は困惑した。

「えっ?」

 と言ったきり、絶句している。木村が何を言っているのか、わからない様子だ。木村は改めて、丁寧に、渡辺が元に戻した駒の配置が、間違っている旨を告げた。渡辺は頭をさげ、あわてて正しい場所に駒を戻す。対局はそのまま、続けられた。

>(117手目)竜王位を争うにふさわしい大熱戦。検討陣からは「名局」の声が上がった。

 いま振り返ってみても、掛け値なしの名局と思われる。そして最後に誤ったのは、挑戦者の、木村一基だった。19時29分。156手の大熱戦を制したのは、若き竜王、渡辺明である。

 言うまでもなく、木村にとっては、痛い敗戦だった。感想戦が終わった後、木村が控え室に引き上げてきた。そこで木村に、渡辺側の駒が乱れたあたりの顛末を聞いた。

「そのまま指すつもりはなかったんですか?」

 私はストレートに、木村に尋ねてみた。木村は笑って、こう答えた。

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松本博文

あの大一番を支えた食は何だったのか―― 現在における将棋対局のネット中継の基礎をつくり、食事の中継の提案も行った松本博文氏がつづる、勝負師メシのエピソード。

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gotogumi 一番好きな棋士は木村一基九段かもしらん。人柄、将棋、解説ぜんぶよい。この記事の写真最高なので元気ないときみてるよ。 https://t.co/FJAVRniJ46 https://t.co/B0J8UzPbIi 1年以上前 replyretweetfavorite

psychedesire https://t.co/RVj6pKKRhS 1年以上前 replyretweetfavorite

0x13DC 将棋人口が1200万くらいでしょ? で一説(https://t.co/WLireABKBZ)によると一基ファンは将棋ファンのうち9割以上いるから日本人の10人から11人に1人は一基ファンということに 挑戦・奪取は必然 2年弱前 replyretweetfavorite

geregeregere #Yahooニュースアプリ 先日のインタビューで羽生さんが語ってた「一手詰め見落とし事件」の話だ。 2年弱前 replyretweetfavorite