伝統と宇宙のなかで自分を位置づける——市川團十郎(十二代目。2013年2月3日没、66歳)
2013年4月の歌舞伎座のリニューアルオープンを前に、その前年末には中村勘三郎、そして年が明けて節分の日に市川團十郎が亡くなった。2人は9歳違い、家族ぐるみで交流があり、勘三郎は自分を赤ん坊の頃から知っている團十郎を、本名の堀越夏雄から「夏雄兄さん」と慕っていた。
いまから30年ほど前(まだ團十郎が十代目市川海老蔵、勘三郎が五代目中村勘九郎だった頃)に、公演でアメリカを訪れたときには行動でともにしている。そのときの團十郎の“天然ぶり”を示すエピソードを、勘三郎は嬉々として語った。
たとえば、帰国の前夜、團十郎はホテルの部屋で荷造りをして、それをロビーまで運んでもらうよう廊下に出しておいたはいいものの、荷物のなかにスーツも何もかも入れてしまった。寝るときはいつもパンツ一枚の彼は、翌朝起きたら着るものがないことに気づき、結局弟子に服を借りたという。もっとも、勘三郎からこの話を聞いたノンフィクション作家の関容子が團十郎に確認したところ、「真実とはほど遠い」と一笑に付されてしまう。本人によれば、真相は以下のようなものであったらしい。
《ニューヨークを打上げて次のワシントンに向うとき、前の晩に少し飲み過ぎたんですけど、深夜に荷造りして翌朝ルンルンで廊下に出したら、はいて行くズボンを入れてしまってたんで、フロントに電話をかけてちゃんと取り戻した、というだけです。第一、弟子とはホテルが違いますから、借りたりはできませんよ》(関容子『海老蔵そして團十郎』)
話を面白くしようとおおげさに脚色してしまう勘三郎に対し、“事実誤認”を本気になって正す團十郎。それぞれの性格の違いが見てとれる。
いずれも梨園に生まれ育った歌舞伎役者でありながら、その歌舞伎に対する姿勢も大きく違った。次々と派手で新しい試みに挑戦した勘三郎に対して、團十郎はそうした多様な考え方を認めつつも、自身はあくまで伝統の継承に重きを置いた。観客からの人気も高い宙乗りについても、それは歌舞伎の真髄からやや外れていると批判的だった。
《私は、空中に浮いているさまを、花道の歩き方や演技であたかも浮いているように見せるのが歌舞伎の醍醐味のひとつと思っている》(『團十郎復活』)
観客にもそのことを理解してもらえるよう、先人から技を受け継ぎ、具現化できるよう努力することこそ、役者の本道だというのだ。
こうした彼の考え方は、何より市川團十郎という大名跡を、300年以上にわたって受け継いできた「市川宗家」に生まれ育ったがゆえのものだろう。
もっとも彼の父である十一代目團十郎も、祖父の市川三升(さんしょう。没後、十代目團十郎を追贈)も、市川宗家の出身ではない。じつは、明治時代に「劇聖」と仰がれた九代目團十郎が1903年に亡くなったのち、初代より続いてきた市川宗家の男系の血統は途絶えてしまった。九代目の長女と婿養子である三升のあいだにも男子は生まれず、七代目松本幸四郎(現在の九代目幸四郎や中村吉右衛門の祖父)の長男を養子に迎え入れる。幸四郎の長男・市川高麗蔵(こまぞう)は、市川宗家に入ると同時に市川海老蔵(九代目)と改名、将来的に團十郎を継ぐことが期待された。
戦後、その二枚目ぶりから女性を中心に熱狂的な人気を集めた海老蔵は、養父・三升の没後の1962年、ついに十一代目を襲名する。九代目没後、事実上60年近く空位となっていた團十郎の名を大スターの海老蔵が継ぐとあって、それまで沈滞気味だった劇界は活気を取り戻した。
しかし十一代目の重圧は想像以上のものだったようだ。彼は努めて團十郎として振る舞おうとし、得意の二枚目を封印して、その名にふさわしい重厚な役を選ぶようになる。その反面、團十郎の名が軽んじられるようなことがあれば、舞台をボイコットするなど高慢ともとれるような行動にも出た。それが周囲との軋轢を生み、孤立を深めるとともに命まで縮めることになる。襲名からわずか3年後、1965年に十一代目は56歳で急逝する。当時市川新之助を名乗っていた、のちの十二代目團十郎はまだ19歳だった。
そうした父の姿を見ていただけに、團十郎は幼い頃より、いつか市川宗家を継がねばならないという自分の立場をよくわかっていた。ほかの何より伝統の継承を重んじるようになったのも当然だろう。それでも團十郎の名前の大きさに、自身の芸が追いつかないことからかなり苦労もしたようだ。
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