横浜1963

与えられたものは、この命だけか

和夫が事件の日に見たのは、エイキンスでなくキャンベルであった。
犯行を未然に防ぎ、キャンベルを現行犯で捕まえるため、ソニーは、キャンベルの乗ったテンペストを尾行する。

 厳めしい面付きのフロントグリルで周囲をへいげいしつつ、テンペストは主の帰りを待っていた。
 大きなため息を漏らしたソニーは、シートに身を持たせかけた。左手首に巻いたセイコースカイライナーを見ると、一時二十分を指している。
 突然、かつて悲しい気持ちで、この坂を上ったことを思い出した。
 ──あれは、いつのことだったか。なぜ、そうなったのか。
 記憶が徐々によみがえってきた。
 十歳くらいの時のことだ。元町から山手公園の方に抜けようと、この坂を上ったことがある。どこに行こうとしていたのかは思い出せないが、母が家に男を連れ込んでいたので家にいられず、外をやみくもに歩き回っていたのだろう。
 その日は、七五三だった。代官坂を上っていると、着飾った家族連れと擦れ違った。
 父親と母親が着物姿の男の子を間に挟んで手をつなぎ、いかにも楽しげに何かを語らいながら坂を下っていった。それだけの話である。これまで、そんな光景はいくらでも見てきたし、何の変哲もない家族連れだった。
 ──だが、あの時だけは、なぜか打ちのめされた。
 家族連れは御宮参りし、どこかで食事をし、そして帰宅するのだろう。子供はその日にあったことを振り返りもせずにとせあめを舐め、両親は子供の成長を喜び合ったに違いない。
 そんなことを想像していると、止め処なく涙が溢れてきた。
 坂を上りながら、なぜ自分はあの日本人のように、両親のそろった普通の日本人の家庭に生まれなかったのか、幾度となく自問した。
 貧しくてもいい。自分の成長を喜んでくれる両親がほしかった。しかしそれさえも、天は与えてくれなかった。
 ──与えられたものは、この命だけか。
 その命でさえ、今日中に失う可能性がないとは言い切れない。
 自嘲しながら、ついまた胸ポケットに手をやりかけた時である。
 ──来た。
 駐車場の灯りに照らし出され、キャンベルとおぼしき外国人が、女に肩を貸しながらクリフサイドを出てきた。キャンベルは独特の歩き方をするので、影だけでも見分けられる。一方、女の方もかなりめいていしているらしく、足元が覚束ない。
 奇妙な格好で駐車場を歩いていた二人は、テンペストの前で止まった。
 その助手席側に女の体を押し込んだキャンベルは、自らも運転席に乗り込んだ。
 独特のエンジン音が静寂を破り、あの凶悪な四つ目が光を宿す。
 ──どこに向かう気なのか。
 左折して元町方面に向かうとばかり思っていたテンペストは、意外にも右折し、坂を上ってきた。
 すかさずソニーが運転席に身を隠す。
 ──どっちに行く。
 坂を上り切ったテンペストは、迷うことなく山手本通りを右折し、山元町方面に向かった。
 コロナのエンジンをかけて追跡しようとしたが、坂の途中にはUターンするスペースがない。
 一瞬、クリフサイドの駐車場まで下ってUターンすることも考えたが、それでは見失う恐れがある。
 ──仕方ない。
 バックギヤのまま坂を上ったソニーは、山手本通りにヘッドライトが見えないことを確認すると、思いきり尻を港の見える丘公園の方に出した。
 真夜中ということもあり、ほかのクルマは来ておらず、ソニーは瞬時にコロナの頭を山元町方面に向けられた。
 ギヤをファーストに入れ、クラッチを放す。無灯火のコロナが猛然と前進を開始する。
 テンペストはかなり先を行っているはずだ。
 ──見失ったか。
 この辺りは米軍関係者の住宅も多く、脇道にそれることは、あまり考えられない。
 ──焦るな。
 山手本通りは尾根伝いに付けられた道なので、曲がりくねっており、前方を見渡せない場所が多い。タイヤを軋ませながらカーブを曲がっていると、地蔵坂上の交差点に出た。ここは五つの道が合流する交差点なので、真夜中でも黄色点滅にはならない。
 だが、交差点にテンペストの姿はない。
 ソニーが着く前に、テンペストは青信号で交差点を通り過ぎ、その先の山元町方面まで行ってしまったのかもしれない。
 五差路のいずれかを曲がった可能性もないではない。左折すれば山手隧道方面に戻ってしまうので、それは除外できる。斜め右の道を行けば住宅密集地なので犯行に及ぶとは思えない。右折して地蔵坂を下れば元町方面であり、それなら、わざわざクリフサイドを出て山手本通りを使う意味がない。
 結論として、テンペストは地蔵坂上の交差点を直進し、山元町の交差点に向かったとしか思えない。
 ──待てよ。
 代官坂から地蔵坂上まで千メートル弱の距離の間に、カップルが行くような場所はないか考えてみた。
 ──あった。

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この連載について

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