五
厳めしい面付きのフロントグリルで周囲を睥睨しつつ、テンペストは主の帰りを待っていた。
大きなため息を漏らしたソニーは、シートに身を持たせかけた。左手首に巻いたセイコースカイライナーを見ると、一時二十分を指している。
突然、かつて悲しい気持ちで、この坂を上ったことを思い出した。
──あれは、いつのことだったか。なぜ、そうなったのか。
記憶が徐々によみがえってきた。
十歳くらいの時のことだ。元町から山手公園の方に抜けようと、この坂を上ったことがある。どこに行こうとしていたのかは思い出せないが、母が家に男を連れ込んでいたので家にいられず、外をやみくもに歩き回っていたのだろう。
その日は、七五三だった。代官坂を上っていると、着飾った家族連れと擦れ違った。
父親と母親が着物姿の男の子を間に挟んで手をつなぎ、いかにも楽しげに何かを語らいながら坂を下っていった。それだけの話である。これまで、そんな光景はいくらでも見てきたし、何の変哲もない家族連れだった。
──だが、あの時だけは、なぜか打ちのめされた。
家族連れは御宮参りし、どこかで食事をし、そして帰宅するのだろう。子供はその日にあったことを振り返りもせずに千歳飴を舐め、両親は子供の成長を喜び合ったに違いない。
そんなことを想像していると、止め処なく涙が溢れてきた。
坂を上りながら、なぜ自分はあの日本人のように、両親のそろった普通の日本人の家庭に生まれなかったのか、幾度となく自問した。
貧しくてもいい。自分の成長を喜んでくれる両親がほしかった。しかしそれさえも、天は与えてくれなかった。
──与えられたものは、この命だけか。
その命でさえ、今日中に失う可能性がないとは言い切れない。
自嘲しながら、ついまた胸ポケットに手をやりかけた時である。
──来た。
駐車場の灯りに照らし出され、キャンベルとおぼしき外国人が、女に肩を貸しながらクリフサイドを出てきた。キャンベルは独特の歩き方をするので、影だけでも見分けられる。一方、女の方もかなり酩酊しているらしく、足元が覚束ない。
奇妙な格好で駐車場を歩いていた二人は、テンペストの前で止まった。
その助手席側に女の体を押し込んだキャンベルは、自らも運転席に乗り込んだ。
独特のエンジン音が静寂を破り、あの凶悪な四つ目が光を宿す。
──どこに向かう気なのか。
左折して元町方面に向かうとばかり思っていたテンペストは、意外にも右折し、坂を上ってきた。
すかさずソニーが運転席に身を隠す。
──どっちに行く。
坂を上り切ったテンペストは、迷うことなく山手本通りを右折し、山元町方面に向かった。
コロナのエンジンをかけて追跡しようとしたが、坂の途中にはUターンするスペースがない。
一瞬、クリフサイドの駐車場まで下ってUターンすることも考えたが、それでは見失う恐れがある。
──仕方ない。
バックギヤのまま坂を上ったソニーは、山手本通りにヘッドライトが見えないことを確認すると、思いきり尻を港の見える丘公園の方に出した。
真夜中ということもあり、ほかのクルマは来ておらず、ソニーは瞬時にコロナの頭を山元町方面に向けられた。
ギヤをファーストに入れ、クラッチを放す。無灯火のコロナが猛然と前進を開始する。
テンペストはかなり先を行っているはずだ。
──見失ったか。
この辺りは米軍関係者の住宅も多く、脇道にそれることは、あまり考えられない。
──焦るな。
山手本通りは尾根伝いに付けられた道なので、曲がりくねっており、前方を見渡せない場所が多い。タイヤを軋ませながらカーブを曲がっていると、地蔵坂上の交差点に出た。ここは五つの道が合流する交差点なので、真夜中でも黄色点滅にはならない。
だが、交差点にテンペストの姿はない。
ソニーが着く前に、テンペストは青信号で交差点を通り過ぎ、その先の山元町方面まで行ってしまったのかもしれない。
五差路のいずれかを曲がった可能性もないではない。左折すれば山手隧道方面に戻ってしまうので、それは除外できる。斜め右の道を行けば住宅密集地なので犯行に及ぶとは思えない。右折して地蔵坂を下れば元町方面であり、それなら、わざわざクリフサイドを出て山手本通りを使う意味がない。
結論として、テンペストは地蔵坂上の交差点を直進し、山元町の交差点に向かったとしか思えない。
──待てよ。
代官坂から地蔵坂上まで千メートル弱の距離の間に、カップルが行くような場所はないか考えてみた。
──あった。