(絹ごし豆腐の冷奴)
8月11日は、「山の日」である。
そしてまた、「きのこの山の日」だともいう。
<記念すべき国民の祝日「山の日」にあやかり、きのこの山は、「きのこの山の日」という記念日を山の日と同日に制定させていただきました。> https://www.meiji.co.jp/sweets/chocolate/kinotake...
明治製菓の公式ページには、そう高らかに発表されている。これは、大丈夫だろうか……。そうしてTwitterをのぞいてみると、やはりというべきか、タイムライン上が、ざわざわとしている。
「じゃあ、『たけのこの里の日』は、いつなんだよ?」
そんな疑問が生じるのは、「たけのこの里」を愛する、たけのこ派にとっては必然のことなのだろう。
「あなたは『きのこの山』派ですか? それとも『たけのこの里』派ですか?」
筆者も何度か、日常生活の中で、そう問われたことがある。そうして、答えに窮する。 2012年1月。当時将棋連盟会長だった米長邦雄永世棋聖は第1回電王戦に出場し、コンピュータ将棋ソフト「ボンクラーズ」に敗れた。その後の記者会見で米長は、
「電王戦は『でんおうせん』ですか、それとも『でんのうせん』ですか」
と尋ねられている。報道する側としては、呼称は重大事だ。統一してくれないと、伝える側は困る。そして以下の回答は、いかにも米長会長らしい。
「将棋連盟というところは『どっちでもええやないか』という団体でございます」
まあ、そうでしょうね。その場では「でんのうせん」にしようかということになったが、第2回からは「でんおうせん」で統一された。
一方で、きのこVSたけのこ戦争は……。どうなんでしょう。もちろん両派、「どっちも美味しいということで、どっちでもええやないか」という風に、簡単に妥協できないという点については、よくわかります。
将棋史上に残る意地の張り合いを挙げるとすれば、まずは木村義雄と升田幸三の故事を引くことになる。
終戦直後、読売新聞は「全日本選手権」という棋戦を主催していた。この棋戦は後に、九段戦、十段戦、そして現在の竜王戦へと発展していく。
1949年、木村義雄名人と升田幸三八段は、この全日本選手権で頂点を争うことになった。そこでまず問題になったのが、対局場である。木村は東京、升田は大阪に住んでいる。こういう場合、対局場は「どっちでもええやないか」ということにはならない。
現在であれば特別な事情がない限り、格下の側が移動して、格上の側のホームで対局するものと、一律に決められている。
しかし、当時は戦後の動乱期であった。他の多くの分野と同様、将棋界も再出発をはかる途上である。新体制やルールも、固まる過程にあった。そうした時代の雰囲気もあったのだろう。その上で、東西の対抗意識を鮮明にし、打倒木村に執念を燃やす、升田の意地の張り方は、尋常ではなかった。
木村義雄といえば、現在では「現代将棋の父」と称される。将棋界が実力制名人戦に移行した後、1937年、その初代名人となって以来、「常勝将軍」として、将棋界に君臨し続けてきた。戦後の47年、後進の塚田正夫に名人位を奪われたものの、49年5月、その塚田から名人位を奪い返した際には、「奇跡のカムバック」と称賛されている。
一方の升田は、戦争と指し盛りの時期が重なり、長く軍隊で過ごすことを余儀なくされ、南方のポナペ島(ポンペイ島)では死線をさまよった。戦後は実力日本一という声も上がりながら、極寒の高野山での名人挑戦者決定戦で、弟弟子の大山康晴を相手に必勝の将棋を大逆転で落とすなど、数々の悲運に見舞われ続けてきた。まだこの時点では、名実ともに棋界の頂点に立つ、という段階には、至っていない。
1949年6月、全日本選手権で対戦する時点で、木村名人は、44歳。一方の升田八段は、31歳。どちらが実際に強いのか、という点はともかくとして、キャリアと年齢からすれば、木村の方が格上なのは明らかである。しかし格下の升田の側が、大阪に来いと言って譲らない。運営側は途方に暮れただろう。
そして出た案は、対局場を、東京でも大阪でもない、金沢にすることだった。升田の自伝では「間を取って」ということになっている。木村の側も、その案で折れた。そして対局は、金沢の「つば甚」という、老舗の料亭でおこなわれることとなった。
1949年6月15日。木村、升田、その他関係者は、対局の前日に顔を揃えた。夜には、会食の席が設けられる。その際に出てきたのが、豆腐の料理だった。
以下は将棋界四百年のハイライトの一つとも言える、名場面である。その模様は、升田幸三の自伝、『名人に香車を引いた男』から引用する。
<木村さんがトウフを突っつきながら、
「トウフってのは、うまいもんだね。それももめんごしがいい。絹ごしってのは、歯ごたえがなくていけないよ」
という。名人のお言葉だから、関係者一同、ヘイさようでございと相槌を打つ。その図がいかにもおかしかったんで、私はついこういってからかった。
「もめんごしなんて、ニガリが強くて食えたもんじゃない。トウフは絹ごしが上等と決まっとるんだ。名人は貧乏人の息子だから、絹ごしの味がわからんのと違うか」
自分が五反百姓のせがれなのはそっちのけで、いいたいことをいう。>
関係者一同、この場面には絶句しただろう。
『升田幸三名局集』(日本将棋連盟発行、マイナビ出版)によれば、両者はこう言い争ったともいう。
<「君はまだ若いから、ものの味が分からんのだろう」
「口に入れると、とろけるような舌ざわりのよさを名人こそ分からんのと違うか」
「そんなこたあ君い、田舎もんの言うことだよ」>
くどいようだが、木村、升田はともに、将棋史に名を刻む、大棋士である。その二人が、子供のように言い争って、譲らない。
木村義雄名人が言うように、木綿ごしがいいのか。それとも升田八段が主張する通り、絹ごしがいいのか。
その場に居合わせた関係者たちはおそらく
「どっちでもええやないか……」
と思ったことだろう。
そうして、将棋史中、白眉の名シーンが訪れる。以下もまた、升田幸三『名人に香車を引いた男』から引用する。
<そのうちバカバカしくなって、
「名人がなんだ。名人なんてゴミみたいなもんだ」
といってやった。これには木村さんもムッとして、
「名人がゴミなら君はなんだ」
と切り返してきた。
「私ですか、さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですな」
とっさにこう答え、ハッハッハと笑うと、一座の人たちも、つられて笑い出す。かくて口ゲンカは、私が一本取った形になったんだが、そう簡単に降参する木村さんじゃない。
「升田君、君も偉そうなことばかりいってないで、一度くらい名人戦の挑戦者になったらどうだね」>
この一連のやり取りは、「ゴミハエ問答」と呼ばれる。
大勢の人の前で、名人をゴミ呼ばわりして面罵する棋士は、升田が空前である。そしておそらくは、絶後だろう。もし現代にそんな発言をする若手棋士がいたとしたら、大炎上どころではすまない。
升田のあまりの言い草に、真っ向から立ち向かう木村もまた、骨の髄までの勝負師である。そうして、両者の機知に富んだ応酬は、見事としか言いようがない。意地の張り合いも、ここまで続けば感動的だ。かつて将棋とは、盤上だけでなく、盤外においても、全人格をあげての戦いだったことが、よくわかる。
木綿-絹ごし論争と、ゴミハエ問答から一夜明けた翌日。木村-升田の対局は、両者が総力を尽くした、死闘となった。
相矢倉の序盤から、先番の木村が先攻して、まずはポイントをあげる。しかし升田は驚異的な粘りを見せて、土俵を割らない。泥仕合が延々と続き、ついに173手目、木村の側に大ポカが出て、形勢不明に。そして、210手。夜を徹し、明け方まで続いた死闘は最後、若い升田が、大逆転勝ちを収めることになった。
木村と升田の戦いは、これだけ続いてもまだ終わらない。徹夜明けで疲労困憊のはずの年長者の木村は、兼六園の見物にもついていくと言ってきかない。
<「私に弱みを見せまいと、意地を張っとるわけなんだ。天下の名園を、なかば居眠りしながら散歩する木村さんの姿は、こっけいに映る半面、
「ああ、この意地っ張りが名人を支えているんだなあ」
と、改めて感心もさせられたもんです」> (升田幸三『名人に香車を引いた男』)
金沢では現在でも、タイトル戦の対局など、多くの将棋イベントがおこなわれている。観る将棋ファンの方は、もし金沢を訪れる機会があれば、兼六園や、あるいは現在も営業を続けている「つば甚」において、木村、升田の往時を偲ぶことができるだろう。
ところで、木村-升田戦の前夜に出された、豆腐を使った料理とは、何だったのか。筆者の知る限りでは、文献で見た記憶はない(あれば教えてください)。
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