中目黒駅がラッシュアワーに突入して、あふれかえるほどの人が駅を行き交っている。隣接する立ち食いそば屋も、今日一度目の混雑を迎えていた。
関口がちらりと時計を見てから、独り言のようにつぶやいた。
「人かき分けてさ、でしゃばって、生き残ってきたと思わない?」
「あぁ」
「自滅する人間のほうが、俺はどっか尊いと思ったよ」
スーツ姿のサラリーマンたちが灰色のグラデーションをつくって、目の前の横断歩道をはみ出さないように渡っている。次の選挙の立候補者が朝の演説に備えて拡声器を準備していた。駅に向かう流れに逆行しながらゆっくり歩く老人が、横断歩道の途中で振り返ってから立ち止まり、空を見上げている。
「そうかもな」ボクは高架下からのぞく東京の風景を一瞥しながら答えた。
「あの時、おまえ、俺をとめなかったな」関口はそう言うとボクの方を向いた。
「おまえがやんなかったら俺がやってたよ」
「ウソコケ」関口がやっと笑った。
「なめんなよ」ボクも少し笑った。
関口は空き缶の縁で煙草をもみ消すと、ふいに言った。
「負けんなよ」
「ん?」
「負けんなよ、おまえ。負けんな」
アシスタントが時計を見た後にサイドミラーでボクに目線を送る。ボクは言葉がうまく出てこなかった。
雨がおさまっていた。風がやんでいた。タイムリミットだった。
始まってしまったボクたちは、必ずいつか終わる運命にある。
必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる。ただその必ずが今日なのか、明日なのか、18年と8ヶ月なのか、それは誰にも分からない。
FMラジオから知らない国の知らないミュージシャンの聴いたことのないバラードが流れていた。中目黒を行き交う車と人々が織りなす喧騒がそれに気持ちよく混ざりあっていた。
この狭いワゴン車で過ごした夜明けの出来事を、どこかの町の喫茶店でナポリタンを食べている最中に、クライアントに電話をかけてコール音が鳴っている最中に、あるいは、いつかまた誰かとの別れを迎えた夜明けの横断歩道で、ふと空を見上げ思い出すような気がした。
「だけど結局、俺たちが何をしても世の中はびくともしなかったなぁ」ボクは出会ってきたすべての人たちにつぶやくように関口に言った。
「そうかもな」関口は少しだけ口角を上げ、立ち食いそば屋でサラリーマンを元気に見送る真田に目をやった。
「まぁでも、きみの人生は大きく狂わせちまったけどな」
そう言って、運転席のアシスタントに声をかける。ボクはサイドミラーを覗く。アシスタントの彼女の左頬には、わずかにまだ三上に殴られた傷が残っていた。
彼女はこちらを振り返り、神妙な顔で言った。
「ほんとに……わたしなんかのためにすみません」
関口は何も答えずにジャケットをはおると、座席から立って運転席の彼女の左手に万札を握らせた。「あ、あの」とアシスタントが言うのを制し、にっこり笑って「転職祝い」と告げた。
「んじゃ、行くわ。おまえと話せてよかったわ」そう言うと関口は、ボクの肩をポンポンと叩いた。
「あーっと、ちくわそば。一緒に真田のちくわそば食わないか?」関口が靴を履きながら、ボクの方を向いた。「俺はまだやめとくよ」思わずそう口をついた。
「オッケー、オッケー」関口はわかってるよと言わんばかりに、おどけながら握手を求めてきた。
ボクはその手を握る寸前に言った。
「関口……」
「ん?」
「俺、おまえのことどっかで気に入らなかったよ。ずっと」
関口は「そんなの俺もだよ」とニヤリと笑って強く握手をしてきた。ボクもできる限り力をこめて握り返した。
運転席のアシスタントがハンドルに体重をかけながら不思議そうにこちらを覗いている。
ボクらはもう一度、ギュッと強く力を入れてから手をはなす。
関口はふと真顔になると、こんな質問をしてきた。
「人と別れる時ってさ、みんな何を話すもんなんだろうね」
「え? んーまぁ、一緒に過ごした思い出話とか? 感謝の気持ちとか。あとなんだろうなぁ」
「その相手が、涙を流すような言葉とか?」
「まぁそうだな」
立ち食いそば屋に4人の若いサラリーマンが入っていき、真田は一層忙しそうに働いている。
「将来さぁ」唐突に関口が言った。
「将来って、俺らもう40超えてんだぜ」
ボクの言葉に関口は背中を向けたまま続ける。
「将来さ、一緒にまた仕事しようぜ」
関口はこちらを振り返りボクの目をジッと見た。しばらくしてから、ふっと笑い「それまで生きてろよ〜」とボクを指さしながらスライドドアを勢いよく閉めた。
関口は振り返ることなく一直線に立ち食いそば屋に向かうと、一呼吸置いてドアを開けた。立ち食いそば屋の厨房で、せわしなく動いていた真田が固まった。関口は厨房の真田に向かって深々とお辞儀をした。4人組の若いサラリーマンがポカンとその光景を眺めている。
「恵比寿の打合せ、どうします?」アシスタントが声をかけてきた。
「行くよ、遅れてるから電車で行くわ」ボクはまだ真田と関口から目を離せなかった。
「わかりました」
「後でさ、関口を送ってやって」ボクはそれだけ告げると、関口とは反対側からワゴン車を降りて中目黒駅に向かった。
ボクはまっすぐに階段を駆け上がって、ホームに向かう。中目黒のホームに続く階段を降りてくる人波をよけながら、最短距離を目指した。
発車のベルが鳴り響く中、乗車率150%の日比谷線に、肩で息をしながら飛び乗った。
カバンからスマホを探す。恵比寿で待ち合わせをしているもうひとりのアシスタントから何度も電話がかかってきていた。約束の時間からもうずいぶん遅れてしまっている。言い訳メールの前に癖でフェイスブックのチェックをしてしまう。
世界の人口は60億を超えて今日も増え続けている。ボクたちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間はもう残っていない。渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことはもう二度とない。
車輪の音がけたたましく鳴り響いた。地下鉄の窓に映し出されたボクは紛れもない42歳の男だった。老けたなぁ。
カーブに差し掛かって、日比谷線が激しく揺れた。ひとりの女性のアイコンが文面と共に目に飛び込んでくる。
〝小沢(加藤)かおり〟。久しぶりにその文字列を読んだ。
車両がふたたび左右に揺れる。ボクはつり革を握りなおす。
日比谷線が暗闇の中を突き進んでいく。
(おわり)
〈上〉写真:馬込将充 モデル:横田光亮
〈下〉写真:福森翔一
デザイン:熊谷菜生