この日の仕事を終えたショーンが、家に帰って転勤のことを告げると、アネットは、すでに分かっていたかのようにうなずいた。
「私はいいけど、ジェイミーが可哀想だわ。チームの中心になって一生懸命、練習しているのよ」
皿を洗いながら、物憂げにアネットが言う。
「フォールズ・チャーチ基地にも野球チームはある。心配は要らない」
「そういう問題ではないわ」
「待ってくれ。この仕事に転勤は付きものだと分かっているはずだ」
アネットを背後から抱きしめようとしたが、するりと体を外された。
「あなたは何をやったの」
「正しいことをしただけだ」
「それは、あなたにとって正しいことであって、白人たちにとって正しいことではなかったというわけね」
「そういうことになる」
「それで、あなたの気はすんだかもしれないけど、私たちはどうなるの」
アネットの言葉が、ショーンの胸を抉る。
──そっちは本土じゃないか。俺は単身でサイゴンに赴任するんだぞ。
そう言いたいところを堪え、ショーンは言った。
「息子に恥ずかしくない生き方をするのが、父親の務めだ」
「それじゃ、お父さんの教えは何だったの」
──米国で生きたいなら、白人に逆らってはいけない。
父庄吉の言葉がよみがえる。
「あなたは、お父さんの教えを踏みにじったんだわ!」
「Shut your mouth!」
冷蔵庫からクアーズを取り出すと、ショーンはテラスに出た。
──アネットの言う通りじゃないか。
風が寒気を帯びてきている。
──もうすぐ十一月だからな。
ビールを飲む気が失せたショーンは、それをテーブルに置くと、デッキチェアに座った。
──そう言えば、佐世保の笹部熊吉と飲む機会も、これで永遠になくなったな。
熊吉がどこまで本気で、「次に会った時は飲もう」と言ったのかは分からない。だがほかの日本人から、そう言われたことはないので、日本人が別れ際に言う決まり文句というわけでもなさそうだ。
──だとすると、あのおっさん、本気で俺と酒を飲みたかったのか。
おそらく熊吉は自分の過去の栄光を語り、「かつては敵だったが、今は仲間だ」などと言って、ショーンの肩を抱いて泣きたかったのだろう。そしてショーンに「熊吉さんは、よくやった」とでも言ってもらいたかったのだ。
そうすれば熊吉は、あの戦争で片腕を失ったことにも納得できたかもしれない。
気が変わったショーンはビールの栓を抜いた。待っていたとばかりに白い泡が噴き出す。それを佐世保の熊吉に向け、「Cheers!」と言って掲げた後、ぐいと飲んだ。
いつもより苦い味が口の中に広がる。
──この寂れた風景とも、おさらばか。
デッキの前には、嫌というほど見飽きた風景が広がっていた。
タワーの白壁と、オレンジ色の常夜灯に照らされた芝生まで、今では愛おしく見える。そこに家族の思い出が詰まっているからだろう。
──こんな場所でも、家族と一緒にいられるだけ幸せだった。
最短でもこれから二年ほど、ショーンは家族と離れ離れになり、高温多湿のベトナムで過ごすことになる。おそらく米軍が勝利しても、そこに米軍が駐屯している限り、ショーンはサイゴンにとどめ置かれるはずだ。
──だとすると、三年から四年になるかもしれない。
その間、SPと書かれた白いヘルメット、白い拳銃ベルト、ぴかぴかのブーツに身を固め、ウィリスSPジープで、ベトナム人の間を縫うように走り回る日々が続くのだ。
だが、そうした日々が終わった時、家族がショーンを待っていてくれるかどうかは分からない。
──Do the right thing.
祖父の彦松は、少年のショーンに、よくそう言っていた。
──そして爺さんは、その通りにして殺された。
それを目の当たりにした父の庄吉は、祖父の言葉の後ろに「For the white people」と付け加えた。
今となっては、どちらが正しいとは言えない。ただ結果として祖父は殺され、父は天寿を全うした。そして皮肉にも、祖父の教えを守ったショーンは、家族と離れ離れにされて前線に送られようとしている。
正しいことを行った代償は、あまりに大きかった。
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