一故人

​永六輔と大橋巨泉(後編)—なぜ二人は東京で消耗するのをやめたのか?

タレントとして縦横無尽に活躍する永六輔と、司会者として一時代を築いた大橋巨泉。二人はその後テレビの仕事をセーブしていきますが、大橋の政界進出など、世間を時にまた驚かせてもいます。そして、病魔が迫った時、二人はどのように向き合ったのか? 今回の「一故人」は放送界の大物二人の後半生を扱います。

前編よりつづく)

番組を降板した永六輔の穴を埋めたのは?

永六輔は、かつて放送業界で「ゴテ六」というあだ名で通っていた。途中で喧嘩して番組を降板してしまうことがやたらと多かったからだ。ぐずぐずと不平不満を言っては「ゴテる六輔」、略してゴテ六というわけである。本人によれば、放送作家やタレントとして携わった番組の9割以上はやめているという(永六輔『昭和~僕の芸能私史~』)。

1959年のフジテレビの開局とともに始まった、クレージーキャッツ出演の昼のコント番組『おとなの漫画』も、当初台本を担当しながら、結局スタッフともめてやめている。このとき永とバトンタッチしたのが青島幸男だった。青島は以後、クレージーの座付作者としてブレイクし、台本ばかりか「スーダラ節」など彼らの歌を作詞してヒットさせ、さらには自身もタレントとしてテレビで活躍するようになる。

青島だけでなく、大橋巨泉がタレントとなったのも、もとはといえば永の「ゴテ六」ぶりが大きなきっかけだった。前編で書いたとおり、永は前田武彦とともにラジオ関東(現ラジオ日本)のトーク番組『昨日のつづき』に出演していたが、番組開始から5年後の1963年、これも突如として降板してしまう。このとき永が代役に指名したのが大橋だった。ディレクターからそう伝えられた大橋は、仕事の都合をつけて収録に駆けつけ、そのままレギュラーとなる。

これと前後して永は、日本テレビのバラエティ番組『光子の窓』も降板している。ときは1960年、日米安全保障条約の改定をめぐり国会周辺で反対デモが盛んに行なわれていたころだ(いわゆる60年安保闘争)。ちょうど国会の近所に住んでいた永は、連日のようにデモに参加する。おかげで『光子の窓』の台本が遅れるので、たまりかねたディレクターの井原高忠から「デモと番組とどっちが大切なんだ」と問い詰められた。これに永は平然と「デモですね」と言ってやめてしまう。この穴を埋めたのもまた大橋だった。大橋は井原とは『ニッケ・ジャズ・パレード』で洋楽の訳詞を担当して以来のつきあいで、その後も一緒に数々の番組をつくることになる。

60年安保のとき、永は同世代の文化人とともに「若い日本の会」に参加している。国会での安保条約の批准を直前にした集会では、国会前へクルマで集まり、デモをやろうと呼びかけたこともあった。しかしこのとき、永の呼びかけに応じた仲間はなく、彼はたったひとりで赤い風前を鈴なりにつけたクルマを運転し、国会議事堂のまわりを何周もしたという(竹中労『芸能人別帳』)。安保条約はけっきょく国会で自然承認され、反対運動は終わった。永の作詞家としての代表作「上を向いて歩こう」(1961年。中村八大・作曲、坂本九・歌)は、このときの挫折感を反映させたものだと、本人が後年あかしている(永六輔『上を向いて歩こう 年をとると面白い』)。

「上を向いて歩こう」は、NHKのバラエティ番組『夢であいましょう』のためにつくった歌だ。永は同番組で作曲家の中村八大とコンビを組み、このほかにも「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」など数々の名曲を世に送り出した。なお、『夢であいましょう』は1960年に始まりその5年後に終了、永が降りることなく最後まで携わった稀有な番組となる。

『11PM』「はっぱふみふみ」……巨泉時代の到来

『夢であいましょう』が終わった1965年、日本テレビで月~金の帯番組『11PM』が始まる。本邦初のテレビのナイトショーとして、のちにはお色気の要素も話題を呼んだ同番組だが、当初は報道中心の堅い番組だった。番組開始から1週間ほどして、芸能班から唯一参加していたディレクターから大橋巨泉に連絡があり、「どうも堅くていけない。15分間なにをしてもいいから頼む」と、1コーナーをまかされた。こうして月曜の番組内で、大橋が麻雀やゴルフ、釣りなどレジャーの魅力を伝える「巨泉のなんでもコーナー」が始まる。

ただし、『11PM』を立ち上げたプロデューサーの井原高忠によれば、番組が始まると大橋のほうから出してほしいと猛プッシュがあったという(『週刊文春』2001年7月12日号)。『11PM』が始まる前年の1964年には、大橋は妻のマーサ三宅とのすれ違いから二人の娘を置いて別居、やがて離婚している。このころテレビの仕事が減っていたというから、彼としては必死に売りこむ必要があったのだろう。

翌66年には『11PM』金曜の司会に抜擢、「巨泉のなんでもコーナー」のレジャーの要素をそこに移した。さらに68年、それまで月曜と水曜の司会を務めていた小島正雄が急逝したため、その穴を埋める。しばらくして水曜は三木鮎郎と交替、金曜のレジャーに対して月曜は政治や社会問題をとりあげた。こうして大橋は硬軟両面あわせもった司会者としてたちまちブレイクする。

前後してテレビ各局で大橋司会の番組が始まった。TBSでは1968年に『お笑い頭の体操』がスタートする。ロート製薬1社提供の土曜19時半の枠は、このあと1976年開始の『クイズダービー』へと引き継がれた。日本テレビでは1969年、『11PM』を立ち上げた井原高忠プロデューサーの企画で、当時犬猿の仲が噂されていた前田武彦と司会を組んでバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』が始まる。司会のパートは生放送で、69年10月21日の第3回は、国際反戦デーのデモで大勢の若者が集まった東京・新宿からの中継も挟んで放送された。

『ゲバゲバ90分!』は、90分のあいだに130本もの短いコントを盛りこむという構成だった。これはテレビCMの手法を採り入れたものだ。同じ年、大橋はパイロット萬年筆のCMに出演、そこで彼が即興で口にした「みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」という意味不明のフレーズは大流行した。広告主のパイロットは当時経営不振に陥っていたが、大橋のCMのヒットで起死回生し、予定されていた社員の大量解雇も回避されたという(『宣伝会議』2013年12月号)。

「はっぱふみふみ」と同時期に大橋は、『11PM』のアシスタントだった女優の朝丘雪路の大きな胸を指した「ボイン」、あるいは笑い声を表現した「うっしっし」など、感覚的なフレーズをあいついで流行させている。「はっぱふみふみ」の短歌風のフレーズなど、かつて俳句に凝った大橋の面目躍如ともいえる。余談ながら、これより前のテレビ草創期、永六輔は仲間を誘って洒落で大橋の門下に入り、「恥骨」の俳号を名乗っている。

東京に戻るのは週末だけの日々

永六輔もタレントとして硬軟両面あわせた活躍を見せた。TBSラジオの深夜番組『パックインミュージック』では、放送中に日本国憲法の全文を朗読したかと思えば、旅行先のパプアニューギニアからトラブルで帰国できなくなったときには、悪友たちが「永六輔、ニューギニアで喰われる!」という番組をつくり、弔辞を放送したこともあった。この弔辞を詠んだなかに作曲家の三木鶏郎や直木賞作家の安藤鶴夫といった社会的に信用される人がいたために、事件として受け止めたメディアがあり、放送中に誤報と訂正したものの、警視庁から大目玉を食ったという(永六輔『昭和~僕の芸能私史~』)。

テレビでは『夢であいましょう』などに出演することも多かったが、1970年前後から意識して背を向け始める。ワイドショーの生放送中に怒って帰ってしまったことも、ひとつのきっかけであった。同時期には作詞家としての活動もやめている。その理由には、印税に依存した生活への疑問、またシンガーソングライターの台頭があったという。

それでも、1970年に日本テレビで始まった『遠くへ行きたい』ではレポーターとして毎週、日本各地を旅した。同番組でプロデューサー役を務めた編集者の矢崎泰久によれば、永は思いどおりの絵が撮れるまで粘るので、そのうちに付き合いきれなくなったという。そこで永の単独出演から、作家の五木寛之や野坂昭如らを加えてローテーション形式にしたのだが、これに彼は《こいつらの旅は旅じゃない。知っている場所を訪ねるんじゃなく、知らないところへ飛び込むのが旅なんだ》と不満だったようだ(『サンデー毎日』2016年7月31日号)。

前後して1967年にTBSラジオで始まった『誰かとどこかで』でも、アナウンサーの遠藤泰子を相手に旅先で見たもの聞いたもの、出会った人について報告した。70年に前出の『遠くへ行きたい』、そしてTBSで『土曜ワイドラジオTOKYO』がスタートすると、各地を旅しながら土曜日には東京に戻るという生活が定着する。それは、学生時代より影響を受けてきた民俗学者の宮本常一から「放送の仕事をするなら、スタジオでものを考えてはいけない。電波の飛んでゆく先で話を聞いて、そこで考えてスタジオに戻ってくるべきだ」と言われたことが大きいという。

一方、大橋巨泉も人気絶頂のなかで仕事を整理する。レギュラー出演は自分の司会する番組だけに絞り、1974年には家も東京から静岡の伊東に移した。以来、東京へは金曜に出てきて、月曜までにテレビ・ラジオの生放送や収録、スポーツ紙の競馬記事の執筆などすべての仕事をこなすようになる。火曜は遅くとも朝8時には東京を発ち、それから3日間は伊東を出ず、晴れた日はゴルフや釣り、雨の日は将棋やジャズ鑑賞に明け暮れた。70年代から80年代といえば、大橋をテレビで見ない日はなかったはずだが、彼は日本ではいまもって異例の週休3日を実践していたわけである。

永六輔は、ある時期からテレビと距離を置くようになった理由について、《たくさんの番組を持っていたのに消えていった人たちを見てきたからだろう》とのちに書いている(永、前掲書)。大橋巨泉もまた、タレントに過密スケジュールを強い、消耗し続ける日本のテレビ業界をことあるごとに批判した。週休3日の生活は、そんな業界に対する一種の抵抗であったともいえる。

1990年、大橋が56歳にして「セミ・リタイア宣言」をしたのは、こうした生活の延長線上にあった。宣言時にはレギュラー番組から1本を除きすべて降板、92年にはその1本だった『ギミア・ぶれいく』(TBS)も終了、これ以後、彼は11月から4月までオーストラリア、6月から9月までカナダですごし、そのあいまに日本に帰ってくるという1年を送るようになる。

政界に入った大橋、入らなかった永

その大橋が、2001年7月の参院議員選挙に民主党(現・民進党)から出馬、41万票あまりを獲得して当選した。前編でとりあげたとおり、かつてルポライターの竹中労は、大橋の参院選出馬を熱望したが、それが30年近くを経て実現したことになる。

じつはそれ以前、1973年にも大橋は、翌年の参院選への出馬を時の首相・田中角栄から日本テレビ社長を介して打診されていた。『11PM』では自民党政府を常に批判してきたにもかかわらず不思議なことだが、彼はテレビやラジオ出演に支障が出るとこれを固辞、けっきょく田中も、ほかの党からは絶対出るなとの条件つきで折れたという(大橋巨泉『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』)。

2000年、出馬の前年においても、雑誌の対談で立候補しないのかと訊かれて、「するわけないでしょ」とあっさり否定している。その理由として《僕はものすごい個人主義で、人のために何かやるなんて高邁な精神は持ってない》ことをあげ、政治家というのは一種の聖職であり、《もし僕が政治家になったら金も取るだろうし、今の政治家がやってるようなことは絶対すると思う》とも語った(『週刊文春』2000年6月22日号)。

それが一転、出馬を決めたのは、2001年4月に小泉純一郎が首相となり、高い支持率を得ていたからだ。国民がひとつの方向に突き進むことに危惧を覚えた大橋は、本格的な二大政党制の確立のためにも立候補を決め、みごと比例トップ当選を果たした。が、同年9月のアメリカの同時多発テロ事件を受けて「テロ特措法」が成立、これにもとづく自衛隊の海外派遣をめぐり、賛成を表明した民主党と大橋は衝突する。党側との溝はけっきょく埋まらず、翌02年1月には議員辞職するにいたった。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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suerene1 永六輔と大橋巨泉(後編)——なぜ二人は東京で消耗するのをやめたのか? https://t.co/WQUWq5Xlfu 3年弱前 replyretweetfavorite

a_tocci 永六輔と大橋巨泉(後編)――なぜ二人は東京で消耗するのをやめたのか?|近藤正高 @donkou | 3年弱前 replyretweetfavorite

0501Can 永六輔と大橋巨泉(後編)——なぜ二人は東京で消耗するのをやめたのか? https://t.co/1PVrRvbxWT @donkou @cakes_PR #永六輔 #大橋巨泉 https://t.co/Vj276Q1986 3年弱前 replyretweetfavorite

Singulith 永六輔は筋金入りの極左。  >「60年安保のとき、永は同世代の文化人とともに「若い日本の会」 〜国会前へクルマで集まり、デモをやろうと呼びかけたこともあった。しかしこのとき、永の呼びかけに応じた仲間はなく」  https://t.co/umCDsLIms9 3年弱前 replyretweetfavorite